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原稿執筆が一段落した夏目漱石、嬉々として上野の料理屋に向かう。【日めくり漱石/12月21日】

3 夏目漱石 2

今から111 年前の今日、すなわち明治38年(1905)12月21日、38歳の漱石は夕方になると、東京・上野の割烹料理屋「伊予紋」に向かった。そこで、文学者や詩人などが集まる会合があった。名づけて「伊予紋会」。

漱石をこの会に誘ったのは、東京帝国大学の同僚の上田敏だった。

上田敏は詩心に富む英文学者で、ボードレール、ヴェルレーヌ、カール・ブッセらの詩を雅語を連ねた荘重な調べの中にうつしとった名翻訳詩集『海潮音』によって一世を風靡していた。

夏目家では1週間前にお産があった。四女の愛子が、近所の産婆さんによって自宅で取り上げられていた。

産後、鏡子夫人が発熱した。当時は、お産時やお産のあとに母親が亡くなってしまうというケースが現代よりずっと多かった。実際、この4年後の明治42年(1909)8月には、漱石の学生時代からの友人の菅虎雄の妻が、お産のあとに体調を崩して亡くなってしまっている。葬儀にかけつけた漱石は、まだ小さい子供たちが母の霊前で焼香する姿を見るにつけても、一層の哀しみに沈むのだった。

わが妻のお産後の発熱という事態に、漱石も「万一のことがあっては」と気が気でなかったが、ほどなく平熱にかえった。

ほっとしていると、今度は次女の恒子が熱を出した。ハシカの疑いもあった。

一方で、漱石は、この2週間、教師仕事の合間を縫って、原稿を書きづめであった。締め切りに追われ、高浜虚子宅で開かれた文章会も欠席。ついには、大学の講義も一日休講にせざるを得なかった。

ひと段落つくと、もう原稿用紙を見るのも嫌で、「こんなことでは小説を書いて飯を食っていくことなど、思いも寄らない」と、ひとり苦笑いするのだった。

原稿を書き終わって気が抜けると、漱石はひととき、仕事を離れて遊びたい気分になった。それだけストレスがたまっていた。この前日も、門弟の東大生・坂本雪鳥とその友人の川淵正幸を自宅に招いて昼食を馳走して、歓談したりしていた。

そしてこの夕刻。酒もほとんど飲めず、流行りの唄に手拍子を合わせて口にのせるような調子のいいタイプでもない漱石が、嬉々として料理屋へ向かった。

鏡子や赤ん坊の健康はもちろん、熱の出ていた恒子の症状も落ち着いてきていた。いまはなんの気がかりもなく、一夕、「伊予紋会」の文人仲間と酒食をともにし、体内にたまった気鬱を払おうとしている漱石先生だった。

■今日の漱石「心の言葉」
やりたい事があり過ぎて、十の二三も実行出来ない

夏目漱石肖指定画像(神奈川近代文学館)720_141-02a

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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