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夏目漱石、ロンドンでの体験をもとに短篇小説を書き上げる。【日めくり漱石/12月20日】

3 夏目漱石 2

今から112 年前の今日、すなわち明治37年(1904)12月20日、漱石は東京帝国大学で受け持ちの講義があった。『ハムレット』の第6回目の講義であった。

『ハムレット』はシェークスピアの四大悲劇の中でももっとも哲学的なものだと漱石は感じており、従来とはちょっと異なる角度から評釈したいと学生たちにも伝えていた。

千駄木の自宅へ帰ると、漱石は机に向かい筆を手にとる。10日ほど前からとりかかっている幻想的な短篇小説を仕上げるためであった。

文机の周りには、何冊かの洋書が散らばるように置かれていた。

その中には、赤い表紙に「Baedeker」の文字が見える小型の本がある。カタカナ読みにすれば『ベデカー』。ドイツの版元から刊行された旅行ガイドブックのシリーズで、明治・大正期の日本人留学生にも広く馴れ親しまれていた。

漱石も留学時には英国全土、ロンドン、フランス北部の計3冊を持参。英国留学準備中の後輩から手紙でアドバイスを求められた時も、《ベデカーの倫敦案内は是非一部御持参の事》と書き送っている。実際にロンドンに住むようになって、その必要性を改めて認識し直した上でのアドバイスだった。

その「ベデカーの倫敦案内」が、いま帰国後の東京の書斎でも再活用されていた。カタログなのか複製画なのか、フランス人画家ドラローシュが描いた悲劇の英国女王ジェーン・グレイや二人の王子の姿も、資料の中に垣間見える。

こうやって、雑誌『帝国文学』に掲載すべく書いているこの作品のタイトルは『倫敦塔』だった。言うまでもなく、英国留学中にロンドン塔を見学した体験をもとにしたあの佳作である。

『倫敦塔』は明治38年10月に刊行された単行本『漾虚集』(大倉書店・服部書店発行)の中におさめられた。神奈川近代文学館所蔵

『倫敦塔』は明治38年10月に刊行された単行本『漾虚集』(大倉書店・服部書店発行)の中におさめられた。神奈川近代文学館所蔵

書き進めながら漱石自身、「結構いいものになるのではないか」という手応えを感じていた。門弟の野間真綱に対しても、途中段階で、《倫敦塔は未だ脱稿せず 然しものになります 御一覧の上是非ほめて下さい》と手紙を書き送ったほどだった。

書き上げて、末尾に(三十七年十二月二十日)と日付を記すと、漱石は机の上に筆を置いた。心地よい達成感と疲労感が押し寄せていた。

だが、創作家の恍惚に不安がつきまとうのは、19世紀のフランス詩人ヴェルレーヌも指摘するところ。翌21日には、先に作品自慢をした野間真綱にこう告白する。

《倫敦塔は出来上ったあとから読んで見ると面白くも何ともない先便は取り消す》

漱石先生、齢37。まだ文壇にも世間にも、その名は知られていない。鮮烈なるデビュー作『吾輩は猫である』の第一稿が掲載された雑誌『ホトトギス』が刷り上がるのは、この何日か後のことである。

■今日の漱石「心の言葉」
眼前の塔影が幻の如き過去の歴史を吾が脳裏に描き出して来る(『倫敦塔』より)

夏目漱石肖指定画像(神奈川近代文学館)720_141-02a

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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