今から105 年前の今日、すなわち明治44年(1911)12月13日の朝、漱石は謡の先生である宝生新を自宅に迎えて謡曲『盛久』を習った。なかなか難しく、強く吟じるところにくると散々な調子になってしまう漱石だった。
稽古を終えたあとの雑談で、4日前におこなわれた霞宝会の催しに話が及んだ。
霞宝会は4年ほど前、下懸り宝生流を維持・発展させる目的で設立された組織だった。能楽の一流派である宝生流には、おもに主役をつとめるシテ方の上懸りと、シテ方の相手役などをつとめるワキ方の下懸りがあり、漱石の謡の師である宝生新は、ワキ方の名人なのだった。
4日前におこなわれたその霞宝会の催しの折、年のころ70代半ば、明治を代表する能楽師の宝生九郎が『鸚鵡小町』を披露した。九郎は5年ほど前からすでに一線を退いていたが、この日は特別に舞台に立ったのだった。
実のところ漱石は、これを、どこがうまいかわからないような感覚で聞いていた。これに対し、宝生新は、さすがに壮大雄抜の迫力に満ちていた。
「あれは、心持ち、派手過ぎました。年のせいかもしれない」
宝生新は、率直な調子で、30歳以上も年長の先人の謡をそんなふうに評した。
一般に、中年になると声の調子が低くなり、そこを過ぎるとまた高くなるものだというのである。このあたりになると、専門家でない漱石には皆目わからない。漱石はそんなものかと思って聞いていた。
数日前から、長男の純一と四女の愛子が風邪をひいた様子だった。
昨夜は愛子は熱を出し、氷で頭を冷やしていた。それでも子供の体調は極端なもので、今日は、もうけろりとしている。午後になると、漱石はその愛子と炬燵でふざけて遊び、おやつの焼き芋を一緒に食べた。
この日は曇天だった。分厚い雲が空を密におおい、夕方過ぎから部屋の中は凍るような寒さになった。
漱石は瓦斯(がす)ストーブを焚いた。が、しばらくすると瓦斯がもれているらしくイヤな匂いがしたので、いったん止めた。夜、修理したあとで、再びストーブをつけた漱石は、子供たちとともに声を合わせて唱歌をうたった。
「もういくつ寝るとお正月~」
滝廉太郎作曲の明るいメロディに、ふと哀調がまぎれこむ。幼い末娘の雛子を失って初めての正月が、まもなくやってこようとしていた。

漱石死去の翌年、大正6年に撮影された漱石山房の書斎内部。左手にガスストーブが見える。写真提供/神奈川近代文学館
■今日の漱石「心の言葉」
歌はやんだ。風が吹く(『三四郎』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
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休館/月曜
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
