今から114 年前の今日、すなわち大正元年(1912)12月12日、45歳の漱石は風変わりな訪問者を迎えていた。
名前はミーという。虎毛の猫である。勝手に迷い込んできたわけではない。漱石とは旧知の仲。それも、「よい猫だ」と漱石の側から褒めた過去がある。
話は1年ほど前に溯る。
森田草平が、自身の心中未遂事件を下敷きにした小説『煤煙』の続篇のような形で朝日新聞に連載した小説『自叙伝』が発端となって、朝日新聞社内に波紋が起こった。門弟たる草平の書いた小説が事の始まりということに責任を感じ、漱石も退く覚悟を決め、主筆の池辺三山に辞表を預けた。
周囲の皆はこぞって漱石を引き留め、結局、籍を置き続けることになった。森田草平のことはひとつのきっかけに過ぎず、もともと社内にくすぶっていた問題が表面化しただけで、漱石が責任を感ずるような要素はなかったのである。
このとき、渋川玄耳も漱石の慰留につとめたひとりだった。そんな騒動も一段落した後、漱石は玄耳の家を訪問し歓談した。
その場にいたのが、いま漱石山房を訪れているミーなのだった。一部には、漱石と玄耳の仲があまり芳しくないのではないかと見ていた向きもあるが、当人たちの心中にはそのような深い蟠りはなかったと見ていい。
この日、猫を連れてきたのは、渋川家の書生の片倉勇作だった。愛猫と別れがたかったのか、それとも新しい飼い主となってくれるオジさんの顔を確かめたかったのか、まだ小学校入学前の玄耳の息子・貞樹も一緒にきていた。
渋川玄耳が前月末に朝日新聞を退社したことを、漱石は新聞発表で知り、「寝耳に水」の思いで受け止めていた。社内の勢力争いの他に、玄耳個人の愛人問題、離婚訴訟などもからんでいたようで、渋川家は一家離散ともいうべき状況に追い込まれようとしていた。
飼い猫の行き先にさえ窮した玄耳の脳裏に咄嗟に思い浮かんだのが、ミーを褒めた漱石先生の顔だった。
玄耳からの「うちの猫をもらってくれませんか?」という懇請を予め受け、漱石はミーを引き取ることを承諾していた。そうして今日、まだ幼さの残る少年に付き添われ、ミーは漱石のもとにやってきているのだった。
夏目家にはこの頃、2代目の黒猫(『吾輩は猫である』のモデルとなった初代の猫と同じく名無しだった)がいて、ミーと名無しの2匹の猫が、このあとしばらく漱石山房に同居することになったのである。
■今日の漱石「心の言葉」
猫が庭の木立の下に寝ている。自分に似ている(『断片』大正4年より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
