今から100 年前の今日、すなわち大正5年(1916)12月10日の深夜、午前1時20分、漱石のデスマスクの原型ができあがった。門弟の森田草平の発案により、彫刻家の新海竹太郎に急遽(きゅうきょ)頼んで制作してもらったのである。
この原型をもとに、後日、二面のブロンズが鋳造される。

漱石没後、漱石山房の書斎に設えられた祭壇。中央に漱石の遺骨が安置され、その前に戒名「文献院古道漱石居士」の書かれた位牌がある。写真提供/神奈川近代文学館
冷たい遺骸となった漱石は、昼頃になると、寝台車に載せられて東京帝国大学医科大学の病理解剖室に運ばれた。長与又郎の執刀で解剖に付されるためであった。
これは、漱石の気持ちをくんだ鏡子の申し出によるものであった。漱石が息をひきとってまもなく、鏡子はこみあげてくる悲嘆を胸の奥へ押し込めつつ、主治医の真鍋嘉一郎にこんなふうに申し出ていた。
「いろいろお骨折りくださいましたのに、とうとうこんなことになって、先生もさぞかし残念でございましょう。何にしても定命(じょうみょう)だとすればしかたがありません。私としましては先生方からこれだけ尽くしていただけばまったくお礼の申し上げようもないのでございます。
ただここで一つお願いがございます。というのはほかでもございませんが、どうか私どものお礼心までに、この死体をおあずけいたしますから、大学で解剖してくださいませんか」
5年前、末娘の雛子が突然死したとき、解剖などの処置をとらなかったため、死因が不明のままに終わった。そのことが、漱石夫妻の心にずっとひっかかりとなっていた。そんなことを夫婦して話していたことや、科学的思考を重んじる日常の言動からして、遺体を解剖してはっきりと死因や病気の痕跡をつきとめ、医学の将来に役立ててもらうということが、漱石本人の遺志に叶うと、鏡子は判断していたのだった。
鏡子、このとき39歳。この芯の勁(つよ)さは、漱石という比類ない人物とともに歩んだ20年の夫婦生活の中で培われたものであったろう。
鏡子から意見を求められた松根東洋城も、門下生代表としてその考えに賛同していた。真鍋は戸惑いながらも、医学者として嬉しくありがたい思いがこみ上げ、「そうしていただければ、私たちのほうでは願ってもない幸いです」と応じた。
病理解剖室では、漱石の頭部と腹部とが解剖され、詳しく調べられた。執刀する長与の傍らに、真鍋嘉一郎や杉本東造といった医師たち、鏡子の代理としての弟の中根倫(さとし)、門下総代としての小宮豊隆などが立ち会った。
2時間弱の時間をかけて解剖の終わった遺体は、夕刻、漱石山房に戻ってきた。やがて棺におさめられた亡骸に、鏡子は、生前の漱石がお気に入りだった絹裏の長襦袢と、正月用に仕立てておいた上物の大島紬の着物を着せかけた。
重さ1425グラムと、日本人男子の平均よりちょっと重たい漱石先生の脳は、このときの鏡子の決断のおかげで、いまも東大医学部標本室に保管されている。
■今日の漱石「心の言葉」
功業は百歳の後に価値が定まる(『書簡』明治39年10月21日より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
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休館/月曜
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
