東京・早稲田南町の自邸、通称「漱石山房」で病床についている漱石の様子を見て、主治医の真鍋嘉一郎が、「いよいよ駄目かもしれない」という診断をくだしたのは、今からちょうど100 年前の今日、すなわち大正5年(1916)12月9日の午前2時頃であった。それでも夜のうちには何事もなく、朝を迎えた。
子供たちが学校に行く時間が近づいてきた。鏡子は、休ませた方がいいのか、真鍋に尋ねた。真鍋は「土曜日で半日だから大丈夫でしょう」と答え、子供たちはそれぞれ学校に出かけていった。
漱石の病状が少しずつ進み衰えていく中でも、子供たちの日常の暮らしをとりまく時間は、とどまることなく流れていたのである。
ところが、その後、鏡子が病床の傍らに戻って漱石の顔を見ると、顔色がまったく生気を失っている。これでは昼まで持たないかもしれないということになり、子供たちのところへすぐに使いを出すことになった。
内田百間は郵便局へ出かけていき、関係者に知らせるべく、危篤の電文を、電報依頼の用紙に次から次と数え切れないくらい記入した。
次女の恒子と四女の愛子は、家からの使いを待つまでもなく、胸騒ぎを感じて早々に帰宅した。愛子は漱石の枕頭にくると、こらえきれずに泣き出した。鏡子が「泣くんじゃない」となだめると、漱石本人も気がついて、目をつぶったまま、
「いいよいいよ、泣いてもいいよ」
と、やさしく呟くように言うのだった。
長女の筆子は迎えにきた人力車が途中でひっくり返り、中から這い出して走って帰ってきた。暁星小学校の生徒である長男の純一と次男の伸六も帰宅し、制服のまま枕元に座ると、漱石は子供たちの顔を見ながら微かな笑顔を見せた。
子供たちは、どこから聞いてきたのか、「瀕死の病人の写真を撮ると治るというから撮影してほしい」と、鏡子に訴えた。迷信深い鏡子も、さすがに今となってはそれで回復するとも思えなかった。けれど、子供たちが言うのを拒絶するのはしのびないし、たとえ駄目でも記念になると思い、折から漱石山房にやってきた東京朝日新聞の写真班員に頼み、隣室から窓越しにそっとレンズを向けてもらった。
漱石山房には、多くの近親者や友人、門弟らが続々と集まっていた。
彼らに看取られながら、午後6時45分、漱石は永眠する。数え50歳。満年齢だと50歳に2か月ほど足りない生涯であった。
漱石は生前、手紙の中にこんなふうに綴っていた。
《死んだら皆に柩の前で万歳を唱えてもらいたいと本当に思っている。私は意識が生のすべてであると考えるが同じ意識が私の全部とは思わない。死んでも自分はある、しかも本来の自分には死んで始めて還れるのだと考えている》(大正3年11月14日付、林原耕三宛て)
■今日の漱石「心の言葉」
死んでも自分はある(『書簡』大正3年11月14日より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
【県立神奈川近代文学館】
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
■所在地/横浜市中区山手町110
■電話/ 045-622-6666
■休館日/月曜
※神奈川近代文学館の公式サイトはこちら
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
