3 夏目漱石 2

今から110 年前の今日、すなわち明治39年(1906)12月5日、39歳の漱石は勤務先の第一高等学校で、ある人物の転任の話を仄聞し、思わず顔を上げた。

その人物は、学生時代からの友人の斎藤阿具。いまは仙台の第二高等学校の教壇に立っているが、今度、一高から転出する教師の後任としてその斎藤阿具がくるらしいというのであった。

漱石は千駄木の家に帰宅すると、すぐに仙台に宛てて手紙を書きはじめた。

《拝啓 塀の修繕難有(ありがたく)存候 偖(さて)今日学校にて承わる処(ところ)原勝郎の後任として君が第一にくるかも知れぬとの事。そこであらかじめ伺って置き度(たく)候
一 若(も)し君東京へ御転住の時は当家へ御這入りなされ候や
一 もし小生が此(この)家を出ねばならぬならば君が東京転任決着次第御報知を受けて御着前に相当の家を探したし》

漱石がいま住んでいる千駄木の借家は、本来、斎藤阿具の持ち家であった。阿具が欧州留学、仙台赴任と、東京を長期に離れねばならぬ状況となっていたため、人を介して、借家に出した。

漱石は当初、友人の持ち家ともわからず、偶然、この家を借りることにした。両人がこの事実を認識したのは、漱石が千駄木に引っ越してきてしばらくあとのことであった。

その阿具が、今度、仙台から東京へ戻ってくる。そんな噂を耳にしたとき、まず漱石の頭に浮かんだのは、借りている家のことだった。阿具が自分の持ち家に戻って住みたいということならば、自分は引っ越しをすべきだろう。漱石先生、相手の立場にたって、先回りしてそう考えたのである。

《御着前に相当の家を探したし》

と友に対する気遣いを見せながら、漱石は最後に、こう書いた。

《出来るならば此うちを以前の如く借りて居りたし》

ぽろりともらした本音である。

熊本で5度住まいを変え、ロンドンでは4度の転居をするなど、随分と引っ越しを重ねた漱石先生だが、自ら好んで積極的に各地へ引っ越しを繰り返し、それを創作のエネルギーにも転化した感のある谷崎潤一郎や志賀直哉とは、少々事情が異なっていたようだ。

阿具の転任の正式な辞令が出て、漱石は結局、暮れも押し詰まった12月27日、本郷区(現・文京区)西片町へ引っ越しをすることになる。

そこの大家がとんでもない強突張(ごうつくばり)であることに気づくのは、引っ越し後しばらくしてからのことだった。

■今日の漱石「心の言葉」
引越をする時はぜひ手伝いに来てくれ(『三四郎』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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