3 夏目漱石 2

今から105 年前の今日、すなわち明治44年(1911)12月2日、44歳の漱石は3日前に急逝した五女・雛(ひな)子の葬儀の日を迎えていた。死去の翌日に通夜をしたが、翌々日は友引で葬儀を行なうのは縁起がよくないということで、1日延ばしたのだった。

まったくもって、予期せぬ突然の愛娘の死だった。

雛子は病気で寝ていたのでもなんでもなく、おしゃまな子で、直前まで元気で遊んでいた。それが食事中に倒れた。まだ1歳半の幼さで、箸を使う手つきも覚束なく夕飯を食べようとしている最中に、急に小さな叫び声を上げて仰向けに倒れ意識を失った。呼吸も失われた。

すぐに医者を呼びにいってさまざまな処置をしてもらったが、蘇生することはなかった。死因さえも不明であった。

出棺は朝の9時と決まっていた。漱石は6時半には起き、身支度を整えた。身にまとうのは黒の喪服だった。鏡子は黒の紋服に黒の繻子帯。長男の純一には海軍服を着せて黒紗を腕に巻き、他の子供たちは縮緬の紋付に袴をつけさせた。

冷たくなった雛子は、経帷子を着て小さい数珠を手にかけ、すでに棺の中に納められていた。傍らには、小さい藁草履と編笠、赤い毛糸の手編みの足袋も入れられている。いまその上から、さらに、南無阿弥陀仏と書いた短冊を散らし、皆の買ってくれたオモチャも入れていく。

僧侶が5人やってきて、順繰りに焼香をすませると、漱石は家族とともに落合の火葬場へ向かった。門弟の小宮豊隆と、鏡子の弟の中根倫も付き添っていた。

火葬場の周囲の木々が、晩秋を告げていた。銀杏の葉は黄色にそまり、背の高い落葉樹の散り残しの葉が、時折、ひらひらと舞い落ちていく。漱石はそれを黙って見ていた。時間が、瞬時にくるくると回転しながら、しかしゆっくりと流れているようだった。

帰宅後、ふと、座敷に置いてある炭取が、漱石の目にとまった。漱石がイギリス留学から帰ったあと、東京で所帯を構え直すときに、せめて炭取だけでも新しく綺麗なものをと思い、買い求めたものであった。思えば、それは雛子の生まれる5、6年も前のことになる。漱石の胸の中を、痛切な思いが過(よぎ)った。

「この炭取はまだどこも何ともなく存在しているのに、雛子はもういない。いくらでも代わりのある炭取は依然としてあるのに、破壊してもすぐ償うことのできる炭取はこうしてあるのに、かけがえのない雛子は死んでしまった。どうしてこの炭取と代わることができなかったのか」

漱石は、自分の胃にも、精神にも、ひびが入ったような気がした。そこに哀愁の風が吹きつけて、ぴいぴいと悲鳴のような音を立てていた。

■今日の漱石「心の言葉」
僕も一人ぼっちですよ(『野分』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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