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3 夏目漱石 2

今から108 年前の今日、すなわち明治41年(1908)11月30日、41歳の漱石は吉報を胸に、東京・牛込横寺町の正定院を訪問した。辺りは、夕闇に包まれはじめていた。漱石の傍らに、東京朝日新聞社員で門弟の坂本雪鳥が付き従っていた。

訪問先の正定院には、漱石門下の森田草平が下宿している。その下宿にこもって机に向かっているはずの草平が、留守である。仕方なく漱石は、しばらく時間をつぶし、再びこの寺に足を運んだ。草平はまだ帰っていなかった。

それほどまでして、一刻も早く漱石が草平に知らせたかったのは、『煤煙』の朝日新聞連載決定のニュースだった。

『煤煙』は、草平が平塚明子(平塚らいてふ)と起こした心中未遂事件を下敷きにした小説で、冒頭部分の原稿が徐々に書き進められているところだった。漱石の口利きで、原稿がすべてまとまった暁には、春陽堂から単行本として刊行される約束が出来上がっていた。

その上で、漱石は、朝日新聞への連載の話も、編集部に見本原稿を送るなどして、交渉を進めていた。それが今日、正式に決まったのである。漱石が胸を躍らせるのも無理はなかった。

「森田のやつ、原稿を書き直すのに時間が惜しいといって、早々に引き上げていったくせに、一体どこをほっつき歩いてるんだ」

漱石は、苛立ちというより、もどかしいような思いを感じていた。

帰宅後、漱石は草平宛ての手紙をしたためた。

《只今二度御訪ね申候処御不在 不得已(やむをえず)引取候。「煤烟」朝日の採用する処と相成明日八千号を期し其(その)予告をする由にて相談に参候(略)書き上げた分は社へ渡しそれ丈(だけ)稿料に引換え年を越せる様にする事
今夜電話にて春陽堂へ一寸(ちょっと)断わる事
右の件依頼致置候。漸く落着一先(ひとま)ず安心に御座候
書き直すひま惜しとて帰りながら二度行っても居らず。何所(どこ)をあるいて居るにや。あまり呑気にすると向後も屹度(きっと)好い事なき事受合に候。先は右迄 草々》

草平は夕方までは確かに、正定院の下宿で机に向かって筆を握っていた。だが、日が落ちてくると堪えがたい寂寥感に襲われ、ひとり酒を呑みに出てしまっていたのだった。

漱石の手紙を受け取った草平は、飛び上がって喜んだ。

自分の書いた小説が、朝日新聞紙上に連載されるのだ。それも、師たる漱石先生の『三四郎』の連載のあとを引き継ぐ形となるのである。

草平は何度も手紙を読み返す。

やがて叱責の文にこもる漱石の父親の如き温情が胸にしみ、あふれてくる涙を禁じ得なかった。

■今日の漱石「心の言葉」
己れの呑気を自覚しない男だと思った(『行人』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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