今から105 年前の今日、すなわち明治44年(1911)11月29日の東京は、快晴であった。この日は謡の稽古日。師匠の宝生新が漱石山房(東京・早稲田南町の漱石の自宅)にやってきて、漱石は謡曲「盛久」の続きを習った。
夕暮れどきになると、門弟の中村古峡が来訪した。古峡は東京朝日新聞の社会部を少し前に辞職していて、いろいろと漱石に相談にきたのだった。
ふたりが書斎で話し込んでいると、子供たちが入ってきて、「ちょっと来てください」と言う。
「大方、雛子がひきつけでも起こしたのだろう」
漱石はそう思いながら中座し、茶の間の方へと向かった。末娘の雛(ひな)子やその上の次男の伸六は、以前から時折ひきつけを起こすことがあった。ひきつけて倒れても、顔に水をかけるとすぐに息を吹き返すので、みな馴れっこになっていた。漱石も余りおおごとには考えていなかった。
ところが今日は、なんだか様子が違った。
茶の間の膳の上には、食べかけの夕食がのったままだった。雛子は、隣の6畳間で倒れていた。母親である鏡子夫人が抱きかかえ、顔へ濡れ手拭いをのせて冷やしている。漱石が覗き込んでみると、唇の色が蒼い。
これは、只事ではないぞ。漱石は、そんな殺気だった思いに駆られた。
女中が呼びにいって、夏目家のすぐ前の医者がくる。注射をしてもらったが効き目がない。雛子は口を開け目を半眼にして、まるで眠っているようだが、息をしていない。
まもなく主治医の豊田鉄三郎も駆けつけた。人工呼吸やら注射、からし湯につかわせるなど、いろいろと手を尽くしたが、とうとう呼吸は戻らなかった。
「どうも不思議だな」
医者は、呟くように繰り返した。どうにも、死因がはっきりわからないのだった。
漱石も鏡子もただ呆然として、現実のこととは受け止められなかった。さっきまでお姉ちゃんの筆子(漱石の長女)におんぶしていたり、猫の墓のそばで元気に遊んでいたわが子。それがお茶碗片手に覚束ない手つきで箸を使っていて、「きゃっ」といって仰向けに倒れたなり、死んでしまうなんて。
それでも、漱石は雛子の体を座敷の次の間に移した。北枕に寝かせ、枕もとには雛子が好きだった風船を置いた。わずか1年8か月であっけなく散った命。
夫婦の胸の内に、だんだんと悲しみが現実となってこみ上げていた。

1912年9月に春陽堂から発行された『彼岸過迄』。漱石は夭逝したわが子への思いを、この作品の中に描き込んだ。神奈川近代文学館所蔵
■今日の漱石「心の言葉」
不思議 ひな子の死(『断片』明治44年より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
