今から105 年前の今日、すなわち明治44年(1911)11月28日、44歳の漱石は東京の空を見上げながらロンドンのことを思い出していた。
どんよりと陰気な雲の向こうに太陽が薄く見え、冬の近づいているのが感じられた。ただ産業革命で大量の石炭の焚かれているロンドンと違い、東京は空気の清涼なのが救いだった。
昼からは、雨になった。その雨が庭の芭蕉にしとどに降りかかるのを見ていると、なんだかわびしい感じが伝わってきた。
この日、漱石は文芸協会から招待を受けていた。帝国劇場で、イプセン原作の芝居『人形の家』をやることになっていた。開演は午後4時半の予定だった。
漱石は入浴して身支度を整え、フロックコートを着て、人力車を頼んだ。ヨーロッパでは劇場へ行く際は正装するのが習わしだった。
時間は4時を過ぎたところだった。俥屋はちょうど、娘たちを迎えに女子大へ行って出払っていた。4時20分になっても帰ってこない。もう間に合わないから今日は止めにしようかと思い、コートを脱ぎかけたところへ俥屋が戻ってきた。
漱石が帝国劇場に到着したとき、すでに芝居は始まっていた。
天気が悪いせいか、客は思ったよりも少ない。それでも、知り合いの顔がちらほらあった。東京朝日新聞の同僚の松山忠二郎や西村酔夢らと挨拶を交わす。
幕間に、評論家で小説も書きはじめている近松秋江が「よくお出かけでした」と声をかけてきて、「今日は、ぽんたがきてますよ」と小声で付け加える。名妓の呼び声高い新橋の芸者のことを言っているのだった。
ぽんたは漱石のすぐ前を通ったが、噂に聞くほどの美女には思えなかった。2階の客席には高浜虚子もきていて、見上げると、番付を振って合図をした。漱石もお辞儀を返した。
芝居の演出・脚本は島村抱月だった。主人公のノラは女優の松井須磨子が演じていたが、その顔がまるで洋服と釣り合っていなかった。思い入れたっぷりのゼスチャーや表情も、わざとらしく、一種の刺激を観客に強いて塗り付けようとしているようで、漱石は感心しなかった。それに比べると、男優陣の方がよほど自然で厭味がなかった。
妻ある身の抱月と須磨子の間に恋愛スキャンダルが報じられるのは、この数年後のことである。
さほど遅くないつもりだったが、帰宅するともう9時半だった。漱石は夕食を口にしていなかったが、妻の鏡子は、食べるものはないという。漱石は「それなら、劇場で何か食ってくればよかった」と思いながら、
「じゃあ、蕎麦でもとってくれないか」
と言いつける。無理に西洋風に厚化粧をほどこしたような印象の芝居のあとだから、純和風に蕎麦でもたぐりこむのが、漱石先生にとって最適の口直しだったのかもしれない。
■今日の漱石「心の言葉」
若い者には美人が一番よく眼につくようだ(『趣味の遺伝』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
