絶食状態にまで陥った病人が、回復途上で、少しずつものを口に入れられるようになり、次第に普通食に近づいていく。そういう時ほど、自分にとっての「食」を痛切に意識し直す機会はないのではないだろうか。
今から106 年前の今日、すなわち明治43年(1910)11月26日、東京・内幸町の長与胃腸病院に入院中の43歳の漱石も、食事についている少しの野菜を噛みしめるように食べ、「ああ、生き返る心地だ」と思った。
前日から、昼も夜も、普通の米飯が出るようになっていた。初めて米飯が出たのは、さらにその1週間前の昼食時だった。漱石は「粥より旨い」と感じた。
突然に医師からビスケット1枚を与えられ、限りないほどの嬉しさを覚えたかと思えば、コスモスの花を見て干菓子に似ていると言って、門人に呆れられたこともあった。
《夜は朝食を思い、朝は昼飯を思い、昼は夕飯を思う。命は食にありと。(略)余は今食事の事をのみ考えて生きている》
ある日の日記には、そんな言葉さえ綴っている漱石だった。
この日は、東京朝日新聞主筆の池辺三山が見舞いに訪れた。三山は社長からの伝言を預かっていた。
「先に社から出した金は、君にやったものだから、随意に処置したらよかろう」
というのだった。伊豆・修善寺の大患の折、朝日新聞社が漱石の妻・鏡子の方に申し出て、漱石のために見舞金以外に相応の出費をしていた。
危急を聞きつけて、社員で漱石門下の坂本雪鳥と長与胃腸病院の森成麟造医師を社費で派遣し、漱石の旅館の滞在費や看護婦2名の特派の費用も、負担していた。鏡子は周囲のアドバイスもあり、ともかく夫が本復するまではと、いったん朝日の好意を受け入れた恰好となっていた。
回復してその事実を知らされ、漱石は「病気は個人的なことであるから」と返却を申し出ていた。三山は、会社の出費として処理していたが、なおも漱石に納得しかねている様子があったので、「自分に一任してくれ」と断った上で、この日、社長の伝言をとりつけてきたのだった。
社長の言葉として言明されると、漱石もそれ以上は拒めない。ありがたく受け取ることに決めた。決めながら、漱石はなお、「せめてその中から2、3百円でもとって、公共のことに使ったらどうだろう」と問いかけた。
「面倒だ」
三山はぶっきらぼうに、ただそう答えただけで、病室を後にした。わざとそういう態度をとる三山の背中に、漱石に対する友情があふれていた。
■今日の漱石「心の言葉」
野菜づくしはありがたい(『書簡』明治39年7月2日より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
