今から100 年前の今日、すなわち大正5年(1916)11月23日、漱石の妻の鏡子は朝一番で東大病院の医師の真鍋嘉一郎の自宅に電話し、診察を依頼した。漱石のいいつけによるものだった。
漱石は、2日前、辰野隆の結婚披露宴から帰ったあと、胃の調子を悪くした。披露宴の席がたまたま男女別にわかれていて、テーブルの上に漱石の好きな南京豆の砂糖菓子があった。いつもなら鏡子がそばにいて「胃によくないから、食べるのはおよしなさい」と止めるのだが、この日はそれがない。漱石はいい気になって南京豆を食べ、持病のある胃を刺激してしまったらしかった。
昨日はいったん起き出して机に向かったものの、1文字も書けず寝込んでしまっていた。夜、食べたものを少量の血とともに吐き出し、近所の医師の往診を受けたが、どうも心もとないので、真鍋に診てもらうことにしたのだった。
真鍋の診察を受けながら、漱石は言った。
「君はもと弱かったが、今こんなに丈夫になり、僕はもと丈夫だったが、今はこんな体になってしまった。僕ももう50だからね」
当時の数え年でいえば、漱石はこの正月で50歳に達していた(満年齢は49歳)。真鍋は漱石の松山時代の教え子でもあった。真鍋は励ますように言った。
「先生も洋行なさったからにはお分かりでしょう。50といえば、まだ西洋人の働き盛りですよ」
「僕もそう思って力をつけているのさ」
漱石は微笑したが、その笑顔に力はなかった。予想以上の重態であった。真鍋は応急処置をほどこし、薬を処方して帰っていった。
この日は木曜日だったが、面会は謝絶せざるを得なかった。木曜会の席に連なるつもりで鵠沼から誘い合わせて上京した和辻哲郎と阿部次郎は、人手不足を補う手伝いの書生に変じた。赤木桁平や久米正雄、中勘助らは、「面会謝絶」と聞いてそんなに大変な病状とは知らず、玄関をくぐらずに帰っていった。
その後、漱石はまたも、血の混じった黒い胃液を吐いた。再度の連絡を受けた真鍋は、若い医師を連れてやってきて診察。ふたりの看護婦をつけ、薬をスプーンで少量ずつ飲ませるなどの処置をした。若い医師を連れてきたのは、真鍋が大学の用事やら何やらで動けないときでも、すぐに対応できるようにするためだった。
■今日の漱石「心の言葉」
人間は生きたい為に生きておって、そうして生きたい為に苦労する(『書簡』明治36年7月2日より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
