サライ.jp

3 夏目漱石 2

今から116 年前の今日、すなわち明治33年(1900)11月22日、ロンドン留学中の33歳の漱石は、ベーカー・ストリートの西側、グロスター・プレイス55番Aの建物の前に立った。ロンドン大学のケア教授の紹介で、シェークスピア研究家のウィリアム・ジェームス・クレイグ博士を訪ねてきたのだった。

当日の漱石の日記。

《Craig 氏に会す Shakespear 学者なり 一時間5shillingニテ約束ス 面白キ爺ナリ》

先に漱石から、英文学の個人授業をお願いする依頼の手紙は出していたが、訪問するのはこの日が初めてのことだった。話し合いの末、1時間あたり5シリング(1/4ポンド)の謝礼で授業を実施してもらうことになった。

博士の顔つきについて、後年、漱石は『永日小品』にこう記している。

《その顔が又決して尋常じゃない。西洋人だから鼻は高いけれども、段があって、肉が厚過ぎる。そこは自分に善く似ているのだが、こんな鼻は一見した所がすっきりした好い感じは起らないものである。その代りそこいら中むしゃくしゃしていて、何となく野趣がある。髯などはまことに御気の毒な位黒白乱生していた。いつかベーカーストリートで先生に出合った時には、鞭を忘れた御者(カブマン)かと思った》

そうは言いながらも、漱石は全体として好印象を抱いた。以降1年間、博士のもとに通い続けるのである。

博士はシェークスピア作品のすべてを網羅するような辞典の原稿作成に、もう随分以前から取り組んでいた。漱石の留学中もその仕事に邁進していた。いわゆるライフワークだったのだろう。そうした大きなテーマに取り組んで、こつこつと仕事を進める姿勢も、漱石の目に好もしく映っていた。

漱石自身もこのあと、文部省の辞令にあった「英語研究」や「英文学研究」という狭い枠組みを飛び越えて、「そもそも文学とは何なのか」「人類と世界はどう関係するのか」「これから日本人はどのように生きていけばいいのか」といった壮大なテーマに向き合っていく。

漱石が日本に帰国して2年ほど経過した頃、新着の文芸雑誌にクレイグ博士の死亡を伝える記事が出た。シェークスピアの専門学者であることが、簡略に付記されていた。

漱石はその記事を見ながら、「あの字引はついに完成されずに、反古になってしまったのか」と、しみじみした思いに沈んだのだった。

■今日の漱石「心の言葉」
自分の為にすることは即ち人の為にすることだ(『道楽と職業』より)

夏目漱石肖指定画像(神奈川近代文学館)720_141-02a

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

夏目漱石ありし日々の面白エピソードを毎日連載!「日めくり漱石」記事一覧へ

himekurisoseki-3

ランキング

人気のキーワード

新着記事

ピックアップ

サライプレミアム倶楽部

最新記事のお知らせ、イベント、読者企画、豪華プレゼントなどへの応募情報をお届けします。

公式SNS

サライ公式SNSで最新情報を配信中!

  • Facebook
  • Twitter
  • Instagram
  • LINE

サライ最新号
2020年
11月号

サライ最新号

大人の逸品Online Store

通販別冊
通販別冊

心に響き長く愛せるモノだけを厳選した通販メディア