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3 夏目漱石 2

今から100 年前の今日、すなわち大正5年(1916)11月21日、漱石は東京・早稲田南町の漱石山房(自宅)で、朝から愛用の紫檀の座机に向かっていた。朝日新聞に連載中の小説『明暗』の原稿を書き進めているのだった。

主人公の津田とかつての恋人の清子との次のようなやりとりで、第188 回の原稿を書き上げたのは昼前のこと。

《「予定なんか丸でないのよ。宅(うち)から電報が来れば今日にでも帰らなくっちゃならないわ」
津田は驚いた。
「そんなものが来るんですか」
「そりゃ何とも云えないわ」
清子はこう云って微笑した。津田はその微笑の意味を一人で説明しようと試みながら自分の室に帰った。》

書き上げたあと、次回の覚えのため、まだ空白の原稿用紙の右肩に「189 」と数字を記しペンを置いた。

漱石山房の書斎。漱石はここで数多くの名作を紡いだ。写真提供/神奈川近代文学館

漱石山房の書斎。漱石はここで数多くの名作を紡いだ。写真提供/神奈川近代文学館

午後からは、妻の鏡子とともに、築地の精養軒へ出かけた。東京帝国大学で教壇に立っていた頃の同僚で近所に住む山田三良の夫人・繁子から、「自分の妹と辰野隆(ゆたか)が結婚するのでぜひ披露宴に出てほしい」と頼みこまれていたのである。ちなみに、辰野隆は建築家・辰野金吾の長男であり、のちに仏文学者・随筆家として名を知られるようになる人物だ。

現在では考えにくいことだが、披露宴会場は男女別々の席に別れていた。漱石と鏡子も、離れて指定された席に座を占める。

食卓の上に漱石の好物の南京豆の砂糖菓子が置かれているのを見て、鏡子は小さな不安を覚えた。出がけにも「胃が痛い」と訴えていた夫が、止める者がそばにいないのをいいことに、こんな胃の負担になりそうなものを食べなければいいが、と思ったのである。数え50歳(満49歳)となっていても、漱石にはそんな子供っぽいところがあった。

宴席では柳家小さんがめでたい落語「うどんや」を演ずる一場もあり、小さんファンの漱石を喜ばせた。

宴がはねての帰路、漱石と鏡子はこんな会話を交わした。

「あなた、豆をお食べになりました?」
「ああ、食べた」
「胃が痛いなんて言ってて、いやな人ね」
「なあに、もうすっかり治ったよ」

ところが、この豆が災いとなったのか、翌日から漱石は持病の胃潰瘍を悪化させ病床に伏し、本復することはなかった。

この日、まっさらな原稿用紙の右肩に書いた「189 」という数字が、作家・夏目漱石の絶筆となったのである。

■今日の漱石「心の言葉」
彼は一口も酒を飲まない代りに大変甘いものを嗜んだ(『明暗』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
住所/横浜市中区山手町110
TEL/ 045-622-6666
休館/月曜
神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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