今から108 年前の今日、すなわち明治41年(1908)11月20日、小春日和の穏やかな天気が連日続く中で、41歳の漱石は東京・早稲田南町の自邸、漱石山房に英文学者の上田敏を迎え入れていた。顔を合わせるのは丸1年ぶりだった。
上田敏は、かつて漱石とともに東京帝国大学で講師をつとめていた。漱石の方が7つ年長だが、任命されたのは同じ明治36年(1903)4月だから、親しみ深い同僚だった。漱石は明治40年(1907)春に退官。上田敏はその年の11月から、私費で欧州へ1年間留学した。この日の訪問は、帰朝の挨拶だったのである。
ふたりは、懐かしさとともに、親しく語り合った。
1年前を振り返れば、出発に先立つ11月25日に、上野の精養軒で送別会が催され、漱石も出席した。そのころ上田はすでに、訳詩集『海潮音』の翻訳家としても広く世間に知られていた。カール・ブッセの《山のあなたの空遠く「幸」住むと人のいふ…》、ヴェルレーヌの《秋の日の ヴィオロンの ためいきの ひたぶるに 身にしみて うら悲し…》などのすぐれた訳詩は、上田によるものだった。
そのため送別会場には、発起人となった与謝野鉄幹や、森鴎外、島崎藤村、馬場孤蝶、木下杢太郎ら多くの文壇人も顔を揃えていた。なかなか盛大な送別会であった。宴の途中、壮行の辞を述べるべく指名された漱石は、西洋から新式の便器を持ち帰った話をユーモアたっぷりに披瀝し、会場をわかせた。
そんな漱石先生、近年、日本発のシャワートイレが諸外国の人士に歓待される光景を見たら、ちょっと驚くだろうか。
この送別会の翌日だろうか、上田敏は改めて漱石に暇乞いするため、ひとり漱石山房に足を運んでいる。偶然のことながら、小説『坑夫』の材料を売り込みに荒井という男が漱石山房にやってきたのは、漱石と上田敏のこの面談の最中だった。漱石はのちに、こんな談話を残している。
《『坑夫』の謂れはこうなんだ--或日私の所へ一人の若い男がヒョックリやって来て、自分の身上にこういう材料があるが小説に書いて下さらんか。その報酬を頂いて実は信州へ行きたいのですと云う。(略)一向見知らぬ人だったので、それに上田敏君が暇乞いに来てゴタゴタしていた時だから、私も話を聴いている隙がない。で、財布から幾らか掴み出してこれで行けるかと訊くと、行けますと云う。今夜はまだ立たぬかと云うと、居りますとの答。じゃ今夜ともかくも来てその材料という奴を話してくれと一旦帰してやった。ああは云うものの、何の、騙(かた)りかなんかなら来やしまいと思ってると、正直にその夜やって来た。そして三時間ばかり話を聞かせた》(『「坑夫」の作意と自然派伝奇派の交渉』)
さて、帰国後の上田敏は、京都帝国大学の教壇に立つことが決まっていた。漱石への帰朝の挨拶は、そのまま、京都赴任の報告でもあった。
ちなみに、芥川龍之介、久米正雄らと一高の同級生で、同人誌『新思潮』の発刊にも携わった菊池寛(のちの文藝春秋の創始者)が、友人の盗難事件の罪をかぶって西下、京大で上田敏に師事するのは、このときから5年後、大正2年(1913)のことである。
■今日の漱石「心の言葉」
そんなに君よりえらい人がたくさんいるものじゃないよ。飯だった三度食えればそれでたくさんだ(『書簡』明治39年11月7日より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
Web版「夏目漱石デジタル文学館」
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
県立神奈川近代文学館
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TEL/ 045-622-6666
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
