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3 夏目漱石 2

今から116 年前の今日、すなわち明治33年(1900)11月19日、ロンドン留学中の33歳の漱石はドイツにいる立花銑三郎へ手紙を書いていた。

留学生・漱石は、これより3週間ほど前、一緒に横浜港から渡航してきた藤代禎輔や芳賀矢一とパリで別れた。漱石はひとりロンドンに向かい、藤代と芳賀はドイツのベルリンへと向かった。

ベルリンには先客として、学習院教授で哲学者の立花銑三郎がいた。漱石はこの立花とも旧知の仲であった。藤代や芳賀と落ち合った立花は、ロンドンの漱石宛てに手紙を送り、様子を聞いてきたりしていた。

この日、漱石がしたためているのは、その立花に対する返信だった。

《御手紙拝見致候。いそがしくて落付かざりし為め御礼状も出さず失敬。学校の講義を聞きに行くは愚に候。「コーチ」を取る積りに候。色々計画あれど時と金なき為め何(いず)れもはかばかしからず》

周囲と同等に学生生活を送ろうとすると多額の交際費がかかるため、ケンブリッジやオックスフォードで学ぶことを断念した漱石は、次善の方策を手探りして、ロンドン大学の講義もしばらく聴講してみた。

講義そのものには興味も持てたが、金と時間に厳しい制約がある身で、かつ出来るだけ多くの本も買って帰りたいと思うと、やはり大学生活を享受するのは困難だった。

そこで漱石が思いついたのが、個人授業を受けることだった。手紙文中の「コーチ」はこのことを指し、実際、漱石はこの前日にベーカー街に住むシェークスピア研究家ウイリアム・ジェームス・クレーグ博士にコーチ依頼の手紙を出していたのである。

立花宛ての漱石の返書は、こう続く。

《西洋人と交際抔(など)は時と金による事に候。この様子では矢張英国の事情抔は分り申間敷(もうすまじく)残念に候。然し毎日多少の活た学問をいたし候。珍しきは書物に候。然し何れも高価にて手に合はず。(略)藤代芳賀二君へよろしく》

ロンドンは秋から冬へと向かい、どんよりした曇り空が続いていた。

この翌日、漱石先生はひと缶80銭のビスケットを買い求めた。公園で、飲み物もなしにこれを齧って昼飯代わりとし、書籍代を捻出しようといういじらしい思いつきだった。

このことは、後年、自伝的色彩の濃い小説『道草』の中で、主人公の健三が遠い異国で食費を節約した体験として、こう綴られる。

《ある時の彼は町で買って来たビスケットの缶を午(ひる)になると開いた。そうして湯も水も呑まずに、硬くて脆いものをぼりぼり噛みくだいては、生唾の力で無理に嚥(の)み下した》

はるか時を超えて、留学中の漱石先生に励ましの声を送りたくなる。

■今日の漱石「心の言葉」
なるべく衣食を節倹して書物を買おうと思う(『書簡』明治33年12月26日より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

【県立神奈川近代文学館】
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
■所在地/横浜市中区山手町110
■電話/ 045-622-6666
■休館日/月曜
※神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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