今から105 年前の今日、すなわち明治44年(1911)11月18日は、まるで春先のような生温かさで、漱石はかえってのぼせそうで不快に感じていた。
ここしばらく続いている朝日新聞社内のごたごたと、それに連なる自分自身の進退のことが、いっそう漱石の心を重くしていた。入社以来、一貫して漱石やその一門をもりたててくれていた主筆の池辺三山も、自ら身を退くような事態となっていた。
この日、漱石山房(東京・早稲田南町の漱石の自宅)には東京朝日新聞の弓削田精一がやってきた。弓削田は今回の騒動のはじめ、池辺三山と衝突した相手だった。その弓削田までが、辞意を表明している漱石の慰留にやってきて、「ぜひとも考え直すように」と訴えた。
2日前には、松山忠二郎も漱石邸を訪問し、
「なんとかして、このまま心持ちよく在社してもらう見込みはないか。立場を変えてよく熟考してみてほしい」
と懇請していた。渋川玄耳も、漱石の気持ちを宥めようと足を運んだ。もちろん池辺三山にも繰り返し慰留されている。
こうして新聞社の同僚の四方八方に心配をかけ、次々に訪問と説得を受けると、漱石もだんだん申し訳ない思いがこみ上げてきた。
もともと漱石本人を排斥すべしという声が、どこかから出ていたわけではない。池辺三山に対する恩義、門下の森田草平の小説が新聞連載にふさわしくないのではないかという議論から騒ぎの引き金が引かれた責任を感じ、漱石の側から一方的に言い出したことであった。
ところが、三山の辞任の裏には、表面にあらわれた弓削田との諍いとは別の、社内の覇権争いのようなものがからんでいた。三山はそうしたものにもいい加減嫌気がさしていたのだ。漱石はそんな社内人事に関しては、まったく蚊帳の外の存在であった。
となってみると、皆がとめるのにひとり相撲で無理に強情を張り通す必要もない。そう考え直し、漱石は辞意の撤回を弓削田に告げた。
しばらくすると、妻の鏡子が書斎の机の前へ来て、漱石に言った。
「あなたなぞが朝日新聞にいたっていなくたって、同じことじゃありませんか」
「仰せの如くだ。何のためにもならない」
漱石がそう答えると、鏡子は言う。
「ただ看板なのでしょう」
「看板にもならないさ」
ある種、淡々とした会話であったが、夫婦としては底辺に通い合うものがあった。
そもそも辞表を出すに当たって、漱石は鏡子に相談していた。朝日を離れれば、いまさら教師をやる気もないし、筆一本では従前通りの収入が得られないかもしれない。
「それでも、家の経済の方はどうにかやっていけるかい?」
漱石にそう問われて、鏡子はこんなふうに答えている。
「収入が少なくなればなったで、どうにかこうにかやってゆけるでしょう。どうか、あなたの名分の立つように自由にやって下さい」
こんな台詞、なかなか言えるものではない。鏡子夫人、後世の「悪妻」の評判と違って、肝の据わった、よく出来た奥さんなのである。
■今日の漱石「心の言葉」
強情さえ張り通せば勝った気でいるうちに、当人の人物としての相場ははるかに下落してしまう(『吾輩は猫である』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
【県立神奈川近代文学館】
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
■所在地/横浜市中区山手町110
■電話/ 045-622-6666
■休館日/月曜
※神奈川近代文学館の公式サイトはこちら
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
