今から100 年前の今日、すなわち明治39年(1906)11月17日の夕刻、39歳の漱石は門弟の森田草平の下宿を初めて訪問した。
東京・本郷区丸山福山町(現在の文京区西片)のその借家は、6畳ふた間と3畳ひと間からなっていた。伊藤ハルという50年輩の女がそこに独居し、下宿人を探していた。東大生の森田草平がたまたまそこに出くわし、卒業後もそのまま下宿しているのだった。
まったくの偶然だが、そこはひと昔前、『たけくらべ』『にごりえ』などの佳作を残した作家の樋口一葉が住まっていた家であった。あとでそのことを聞かされ、まだ若く自惚れの強いところもある森田草平は、その奇縁にひそかに恃(たの)むところがあった。草平の脳裏には、森鴎外が一葉の才能を認め、
《この人の筆の下には、灰を撒きて花を開かする手段あるを知り得たり。われは縦令(たとい)世の人に一葉崇拝の嘲を受けんまでも、この人にまことの詩人という称をおくることを惜まざるなり》
と賞賛した、その言葉もよぎっていただろう。
一方で、10年前の11月23日、医師の往診も受けられぬ貧苦の中で、一葉がこの家で若き生命を散らしたことにまで、想像が及んでいたかどうか--。
夜になって、漱石は草平を連れ、本郷菊坂通りから真砂町へ出て、西洋料理の真砂亭へ入って晩飯を食べた。その後、ふたりはさらに散策を続け、上野の不忍池のほとりをぐるりと回り、弥生町から東大の裏門前を経て森川町に至り、ようやく別れたのだった。
草平はこの長い散策の途中で、11歳で死別した父親のことなどを話した。漱石は同情しながらも、小説的な話だと感じた。翌朝になると、なんだか夢の世界に逍遥したような気さえしていた。
草平からは就職の相談も受けていた。沼津の学校で教師を募集している口があり、漱石はちょっと校長に会ってみたらどうかと勧めたが、草平はあまり乗り気でないようだった。漱石は、出版社の俳書堂で編集者をほしがっていて、月給は40円位との話を聞き、そんなことも草平に手紙で知らせている。
心中未遂事件を起こして行き場をなくした草平を自宅に擁護し、文筆家として生きる道筋をつけてやったりするのは、もう少し後の話。
普段から若い人たちに対しては面倒見がいいが、この森田草平に対してはとくに親身になって心配している様子の漱石先生なのである。
漱石の次男の伸六も、漱石と草平の関係について、こう述べている。
《恐らく父は最初から、この青年には何か頼るべき確乎(かっこ)たる支柱が必要だということを、ある程度見抜いていたのではないかと思うが、とにかくこれほど父がその成長に気を配った弟子は、他にあまりいないような気がする。勿論三重吉さんにしろ、小宮さんにしろ、父は非常によくその面倒を見ているけれども、そこには決して森田さんに対するような親身な慰撫や激励は見られないのである。というのも、ある意味では永久に半人前で、容易に一人歩きの出来そうにない森田さんの性格と告白癖が、父の眼には一層心もとなく映ったためだと云えるかもしれない》(『父・夏目漱石』)
■今日の漱石「心の言葉」
君、弱いことをいってはいけない。僕も弱い男だが弱いなりに死ぬまでやるのである(『書簡』明治39年2月13日より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
【県立神奈川近代文学館】
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
■所在地/横浜市中区山手町110
■電話/ 045-622-6666
■休館日/月曜
※神奈川近代文学館の公式サイトはこちら
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
