《御安着結構です。(略)芥川君は売ツ子になりました。久米君もすぐ名が出るでしょう。二人とも始終来ます。(略)「明暗」は長くなる許(ばかり)で困ります。まだ書いています。来年迄つづくでしょう》
漱石が東京・早稲田南町の自宅書斎でそんな手紙を書いたのは、今から100 年前の今日、すなわち大正5年(1916)11月16日、木曜日のことだった。
名宛人はアメリカ、ニューヨークの成瀬正一。芥川龍之介、久米正雄、松岡譲らとともに東大在学中に第4次『新思潮』を創刊した成瀬は、大学卒業後、欧米へと留学していたのである。
例によって、木曜会に集う門人たちに先んじてやってきた滝田樗陰に乞われるまま、半截に梅の絵を描いたのは、この手紙を書いた後だった。
灯ともし頃から、漱石山房に次々と人影が現れ出した。
それぞれが門をくぐり、砂利と落葉を踏んで玄関に至り、格子戸を覆う蔦をがさつかせて呼鈴のボタンを押す。女中が掛け金を開けるのを待って、3畳の玄関の、泰山の金剛経の石刷を貼った二枚折の屏風の前に外套と帽子を置き、右手の廊下に出て居間を過ぎ、座敷の客間と板敷きの書斎が続き間となっているところへ入り、主人や先客に挨拶して座を占めていく。
森田草平、安倍能成といった古株から、芥川龍之介、松岡譲、赤木桁平といった若い世代まで、多くの門弟たちが詰めかけ、先例がないほどの賑わいだった。これだけ大勢の門弟がこの日、師を取り囲んだのは、あとから思えば、なんとも不可思議なことだった。
『「明暗」の頃』と題する一文の中で、松岡は当夜のことをこう振り返る。
《すぐ前の木曜日は私達三四人の極めて淋しい夜だったのに反し、この夜は又実に後から後からと立て込んで、名前だけ聞いて居て其時迄つひぞ顔を見た事のない先輩達なども集まり、とうとう畳の上に座席がない位ぎゅうぎゅうで、私達が山房に出入りして満一ケ年の間で最も賑な夜であった》
柿と羊羹の盆がふたつ廻される中、自由で活発な論議が行き交った。
漱石が近頃口にする「則天去私」(小さな私を去って自然の導きに従う)の境地について少し詳しく語ったのは、随分と深更になってからのことであったという。原稿の締め切りなどを抱え、他よりひと足先、午後10時過ぎに山房を辞し去った芥川、久米、松岡、赤木の4人は、これを聞き逃す羽目になった。
まさかこの日が最後の木曜会となるとは、漱石先生も門弟たちも、想像だにしていなかった。
■今日の漱石「心の言葉」
賽を投げる以上は、天の法則通りになるより外に仕方はなかった(『それから』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
【県立神奈川近代文学館】
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
■所在地/横浜市中区山手町110
■電話/ 045-622-6666
■休館日/月曜
※神奈川近代文学館の公式サイトはこちら
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
