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3 夏目漱石 2

今から110 年前の今日、すなわち明治39年(1906)11月15日、読売新聞の竹越与三郎が、『中央公論』の滝田樗陰を通じて、漱石のもとにこんな申し入れしてきた。

読売新聞紙上に「文壇」という欄を設け、これを漱石に担当してもらいたい。毎日1段か1段半くらいの分量の原稿を書いてもらい、手当てとして月に60円支払う。

この頃、漱石39歳。英国留学から帰国し東京帝国大学と第一高等学校で教鞭をとる傍ら、『吾輩は猫である』『坊つちやん』『草枕』などの小説作品を発表し、その名前は世間に広く知られはじめていた。その漱石をレギュラー執筆者に迎えることで、売り上げを伸ばしたいという思惑が、読売の首脳部にあった。

文筆に、より力を注いでいきたい気持ちは、以前から漱石自身の中にもあった。だから、この話がもたらされたあと、漱石はあれやこれやと思いをめぐらした。寝床に入っても考え続けた。

「毎日それだけの分量の原稿を書くのは、かなり骨が折れそうだ。東大か一高のどちらかは辞めざるを得ないだろう。どちらを辞めるかとなれば、大学の方を辞めたい。高校の方が授業は比較的容易である上に、教師や生徒の一部に、むやみに自分に敵対してくる者がある。いま自分が一高を退けば、そんな奴らを増長させることにもなりかねないし、何より連中から逃げるような形になるのは口惜しい」

と、ここまで考えてきて、一家の主として家計を支えねばならない漱石の思考は具体的な数字にも及んでいく。

「大学を辞めるとすると、年俸にして800 円の減収になる。月60円の手当てではとてもおっつかない。そこのところが、まず大きなひっかかりになる。それはさておくとしても、仕事の中身はどうだろう。たとえ読売で800 円くれるにしても、「文壇」というコラムで毎日、新聞へ書く事柄は自分の事業として後世に残るものではないだろう。もちろん、後世に残るか否かは当人が決めることではないが、文筆をもって世に立つ以上は、それだけの覚悟でなければ面白くない。ただ1日だけで読み捨てられるもののために時間を奪われるのは、大学の勤めと変わらない」

そんなことを、頭の中でぐるぐると考えているうち、漱石は知らず眠りに落ちていた。

翌日、漱石は滝田樗陰宛てに手紙を書いた。昨夜、頭の中をよぎったさまざまな考えを整理して綴り、最後、こう結論づけた。

《以上の理由だからして、まず当分は見合わす方が僕の為めだらうと思う》

漱石先生が朝日新聞入りを決めるのは、この4か月後。給与などの条件面もさることながら、後世に残る可能性のある小説作品の執筆が仕事の中心ということが一番の決め手となったのである。

■今日の漱石「心の言葉」
後世に知己を待つより外に仕方なし(『書簡』明治39年8月3日より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

【県立神奈川近代文学館】
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
■所在地/横浜市中区山手町110
■電話/ 045-622-6666
■休館日/月曜
※神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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