今から116 年前の今日、すなわち明治33年(1900)11月12日、ロンドン留学中の33歳の漱石は、到着早々に入ったガワー・ストリートの下宿から、ウエスト・ハムステッド、プライオリー・ロード85番地の下宿へと引っ越しをした。赤煉瓦の小じんまりとした2階建ての建物が、漱石の気に入ったのである。
家主はフランス生まれの女主人ミス・ミドル。彼女と血のつながらないドイツ人の義父で、洋服店経営者の老人が同居していた。
後年、『永日小品』の「下宿」と題する一文に漱石はこう綴る。
《始めて下宿をしたのは北の高台である。赤煉瓦の小じんまりした二階建が気に入つたので、割合に高い一週二磅(ポンド)の宿料を払つて、裏の部屋を一間借り受けた》
この1週2ポンドという下宿料には、朝夕の食事代が含まれているとはいえ、割安な金額ではなかった。それでも、当座2週間ほど滞在したガワー街の下宿に較べれば、半値以下であった。
ケンブリッジやオックスフォードに行かず、ロンドンに留まると決めた以上、漱石は急いで引っ越し先を探す必要があった。ガワー街に居続ければ、留学費用はそっくりそのまま下宿代に消えてしまう計算だったのである。

明治42年1月から3月にかけて朝日新聞に掲載された連作集『永日小品』第6篇「下宿」の原稿。ロンドンでの下宿生活を下敷きにして書かれた。神奈川近代文学館所蔵
漱石が新しく借りた部屋は、2階の北向きの一室。同じ2階の南向きの応接室つきの広々した部屋には、長尾半平が下宿していた。
長尾は東大工科土木を経て台湾総督府に勤務。台湾総督府総督である後藤新平の命で、築港調査のためヨーロッパに来ていた。その調査のため金にも時間にも糸目をつけていないのが、さすが「大風呂敷」といわれた後藤新平であった。
長尾の居住する室内には美しい絨毯が敷かれ、窓には白絹のカーテンが下がり、立派なソファとロッキング・チェアがあり、暖炉には絶えず火が焚かれていた。漱石は、よくその部屋でお茶を飲んだ。後年、長尾はこう回想している。
《夏目さんに比べては、非常に贅沢な暮らしをしていた。(略)私の室は居室の外にパーラーもあるという風で、そのパーラーでは、私はよく部屋着の絹製のガウンを着て、ソファーにより、本などを読んでいたが、そんな時、夏目さんは、いかにも呑気そうに「今、お暇だかね」などと云いながら入って来て、話しをするという風であった》(『ロンドン時代の夏目さん』)
長尾半平によれば、この下宿には、客の面倒一切を見る年寄りのメイドがいて、夕食時にはピアノの弾き語りのようなことまでしていた。ドイツ語やフランス語も解するこのメイドを相手に、漱石はよく芝居の話などをし、少しでも間違った点があると容赦なくやり込めて面白がっていた。
漱石と長尾は、一緒に近所のレストランへ昼食に出かけることもあった。そんなとき、勘定はいつも長尾持ちであった。
苦しいやりくり算段の中、漱石は長尾に幾ばくかの借金もした。文部省の予算不足による留学生冷遇を、後藤新平の大物ぶりが補った一場面だったといえるのかもしれない。
■今日の漱石「心の言葉」
当地にては金のないのと病気になるのが一番心細く候(『書簡』明治33年12月26日より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
【県立神奈川近代文学館】
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
■所在地/横浜市中区山手町110
■電話/ 045-622-6666
■休館日/月曜
※神奈川近代文学館の公式サイトはこちら
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
