今から106 年前の今日、すなわち明治43年(1910)11月11日、43歳の漱石は入院中の長与胃腸病院(東京・内幸町)で、フランス語の原書を読んでいた。
傍らには、仏独辞典と独英辞典が置かれていた。わからないフランス語が出てくると、まずは仏独辞典でドイツ語訳を見る。そうして、わからないドイツ語が出てきたら、今度は独英辞典で調べるという厄介なやり方を、ここしばらく続けているのだった。
胃が悪くても頭脳を働かせることはできる。こうすることで漱石は、退院するまでに、多少なりと下地のあるフランス語とドイツ語を、もう一段、ものにしたいと考えていた。英語を勉強する際、英和辞典でなく英英辞典を使うことで英語の理解を深めるという手法があるが、その一歩も二歩も先を行く勉強法であった。
そのたゆまぬ向学心、向上心には、やはり頭の下がる思いがする。漱石は死去する1年ほど前に書いた随筆にも、
《力の続く間、努力すればまだ少しは何か出来る様に思う。(略)現にわが眼前に開展する月日に対して、あらゆる意味に於ての感謝の意を致して、自己の天分の有り丈を尽そうと思うのである》(『点頭録』)
と記している。
この日は、門弟の野上豊一郎から、病院へ見舞いの手紙も届いた。来客などは謝絶し専ら静養につとめて下さいと、師の健康を案じながら、秋の景色に染まっている外界の様子を知らせてきていた。
手紙を読み終えると、漱石は、
「今年の秋の景色は、想像するだけで、冬を迎えることになるのだろうな」
と、胸の中で独りごちた。
病室は日当たりのよい南向きで、天気のいい日には暑いほど陽光が射し込むから、冬ごもりにはちょうどいいかもしれん。
そんなふうにも思った。
一時危篤に陥り長く病臥していた伊豆・修善寺を出て、この病院に引き移ってからちょうど1か月。体力は徐々に回復しているのが、自分でもわかった。体重も少しずつ戻っている。謡の仲間でもある野上豊一郎の書簡に接して、ちょっとむずむずした心地になるのも、そのひとつの証左だったろう。一方で、長い病中の閑静な日々を思うと、回復して世の中へ飛び出していく日がなんだか恐ろしくも感じられた。
まだまだ、はっきりとした退院の日、社会復帰の目安を、思い描くことのできない漱石先生なのであった。
■今日の漱石「心の言葉」
しばらく休息の出来るのは病気中である(『書簡』明治43年10月31日より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
【県立神奈川近代文学館】
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
■所在地/横浜市中区山手町110
■電話/ 045-622-6666
■休館日/月曜
※神奈川近代文学館の公式サイトはこちら
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
