3 夏目漱石 2

今から119 年前の今日、すなわち大正3年(1914)11月9日、47歳の漱石は昼過ぎに妻の鏡子が出かけたのを横目に、漢学者の岡田正之へ手紙を書いていた。

岡田は学習院で教鞭をとっており、「わが校の学生たちに向けて講演をやってくれませんか」と頼んできていた。日程は、今月25日か来月2日という案が提示されていた。

《早い方が便利で御座いますから十一月二十五日に出る事に致します(略)演題はまだ未定でありますからどうぞ其(その)御積(おつもり)に願います》

漱石はそう連絡した。この結果、11月25日に行なわれたこの講演こそが、漱石の考え方の核を後世に伝えることになる『私の個人主義』である。

さて、ここ数日、漱石はちょっとしたことで鏡子とやり合っていた。その晩も漱石は鏡子をつかまえて、からむような言い方をした。

「お前の行く静座は何時からはじまるのか?」

鏡子は少し前から岡田式静座法というものを実践していた。一種の修養法のようなものだった。静座することで姿勢と呼吸を整え、心身の修養を図るのだ。鏡子は今日も、それで外出したのだった。

「先生の来るのは3時か3時半です」

鏡子が答えると、漱石はここぞとばかりつっかかる。

「お前はそれだのに12時過ぎにきっと家を出るね」

「寺町をまわったりなんかして、買い物をするのです。それに今日は、お寺参りをしたから早く出かけたのです」

「誰の?」

「今日はあなたのお母さんの日です。私は毎月あなたのお父さんとお母さんの日にはお寺参りをしています」

鏡子夫人、なかなか信心深いのである。漱石は、しかし、さらに尋問するように言う。

「父の死んだのは幾日だ?」

「ひな子と同じだからよく覚えています。29日です」

淀むことなく答える夫人の態度に、漱石は一層苛立つ。

「毎月寺参りなどしなくていい。するなら死んだ月と日に一度行けばそれでたくさんだ」

「買物ばかりじゃない。お釈迦様へ参ったりしてから行くこともあります」

「お釈迦様へ日参して亭主が病気になればありがたい仕合わせだ。御利益が聞いてあきれらあ」

漱石は、そう言ってぷいと横を向く。やりこめるつもりが、終始動じない鏡子夫人に押し戻され、最後はべらんめえ調の捨て台詞のようになってしまう漱石先生だった。

結婚から18年。夫婦は、時として他愛のないことで喧嘩を繰り返している。それでも、互いの胸の奥底には、見合い写真を交換し合って胸をときめかせていたあの頃、英国留学中「恋しい」と言い合い、日本から送られた妻と娘の写真を部屋に飾っていたあの頃が、忘れ去られることなくしまわれている。

そうやって睦み合って、7人の子をもなしてきている漱石と鏡子なのである。

明治28年3月に撮影された漱石の見合い写真。神奈川近代文学館所蔵

明治28年3月に撮影された漱石の見合い写真。神奈川近代文学館所蔵

明治33年頃に写された鏡子と筆子の写真。英国留学中の漱石が大切に部屋に飾っていたのも、こうした写真だった。神奈川近代文学館所蔵

明治33年頃に写された鏡子と筆子の写真。英国留学中の漱石が大切に部屋に飾っていたのも、こうした写真だった。神奈川近代文学館所蔵

■今日の漱石「心の言葉」
良人(おっと)というものは、ただ妻の情愛を吸い込むためにのみ生存する海綿に過ぎないのだろうか(『明暗』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

【県立神奈川近代文学館】
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
■所在地/横浜市中区山手町110
■電話/ 045-622-6666
■休館日/月曜
※神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

夏目漱石ありし日々の面白エピソードを毎日連載!「日めくり漱石」記事一覧へ

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