今から119 年前の今日、すなわち明治30年(1897)11月8日、熊本の第五高等学校の英語教師をつとめる30歳の漱石は、朝一番で佐賀県立尋常中学校の校門をくぐった。学術研究のため、佐賀・福岡両県に出張し、主な中学校の英語授業を視察してくるよう命を受けていたのである。
同僚の武藤虎太(歴史・国語・漢文が専門)も同行し、前夜もいっしょに佐賀市内に1泊していた。

漱石に福岡・佐賀両県への出張を命じた第五高等学校出張命令書(明治30年10月29日)。神奈川近代文学館所蔵
漱石はこの中学校の講堂で、午前9時から、英語教育に関する講和をおこなうことになっていた。それに先立ち、午前8時からは海軍少佐・長井群吉による海軍志願者奨励勧誘の講和が実施された。
日清戦争の終結から2年余が経過していた。この間、ドイツとフランスを引き込んだロシアによる「三国干渉」などもあり、日本とロシアの間には不穏な空気が横たわり続けていた。そうでなくとも、明治維新後、なんとか先進諸国に追いついて仲間入りしたいと切望している日本にとって、富国強兵はもっとも重要な課題だったのである。
正岡子規の松山の幼なじみで、大学予備門(のちの一高)で漱石とも同級生だった秋山真之も、一度は子規とともに文学の道を究めようと誓い合いながら、学費の問題から海軍兵学校に身を転じていた。このころは海軍大尉となり、海軍の戦略、戦術を研究するため、米国へ留学していた。
英語教育に関する講堂での講和を終えた漱石は、午前10時から、4年生の訳読、3年生の訳読、2年生の会話、作文、文法の講義を、次々と視察。さらに昼食をはさみ、午後1時半からは、英語の教授法について、同校の英語教師たちと質疑応答を行なった。
夕刻には、同僚とともに博多へ向かう。翌日は福岡県立尋常中学校修猷館で同様の授業視察をこなしていくのである。
この時の出張報告で、それぞれの授業の方法や傾向を観察・分析し、漱石はこんなふうに記している(『福岡佐賀二県尋常中学参観報告書』)。
《教師生徒共に単に意義を解することのみ力めて発音法等に注意せざるが如し》
《最初に各節の冒頭に於る綴字及び発音の練習をなし、次に読方に移る初め教師模範を示し、次に生徒一節ずつこれを練習す。かくの如くすること二回。初回は出来よき生徒よりし次回は下位の生徒に及ぶ。読方の教授法頗る厳格》
《生徒両三名をして自作の英訳を黒板に書せしめ教師これを批評訂正す。もっとも生徒の困難を感ずべき単語字句は予めこれを教うるものの如し》
《教師は常に英語を用いて日本語を殆どまじえず。生徒もまた力めて英語を使用せんとするものの如し》
《西洋人を使用せざる学校に於てかくの如く正則的に授業するは稀に見る所にして、従ってその功績もこの方面に向っては頗る顕著なるべきを信ず》
しばしば「自分は教師には向かない」「教師などはやりたくない」などと口にしていた漱石だが、取り組んでいる間はけっしていい加減にせず真面目に向き合っている。
だから、英語教師の漱石先生も、なかなかに大忙しなのである。
■今日の漱石「心の言葉」
自己に何等の理想なくして他を軽蔑するのは堕落である(『野分』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
【県立神奈川近代文学館】
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
■所在地/横浜市中区山手町110
■電話/ 045-622-6666
■休館日/月曜
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文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
