今から114 年前の今日、すなわち明治35年(1902)11月6日、ロンドン留学中の35歳の漱石はドイツからやってきた留学生仲間の藤代禎輔と落ち合って、ナショナル・ギャラリーを見物し昼食を食べていた。
「どうだい、やっぱり一緒に帰らないか。荷物は誰かに任せて、後から送ってもらったらいいじゃないか」
藤代はそんなふうに言った。
藤代は、翌7日の日本郵船の丹波丸で帰国することになっていた。当初、漱石も同じ船で帰るつもりで切符も手配していたが、買い集めた大量の本(700 冊くらいあったともいわれる)の荷造りが追いつかず、帰国を遅らせると言い出していたのだった。
藤代が再三、漱石を誘ったのには訳があった。藤代のもとには、文部省からのこんな電令が届いていた。
「夏目ヲ保護シテ帰朝セラルベシ」
大のおとなを相手に、「保護」という表現は尋常のものではない。
どういう経緯か、漱石が下宿にひきこもって自己の研究に没入する姿が、精神に異常を来したという噂話に変じ増幅しながら文部省に伝わり、そんな事態を惹起したらしかった。
漱石が文部省に白紙の報告書を提出したことも、悪い方向に関係者の想像力を刺激したのだろう。漱石は文部省が命じた「英語研究」という小さな枠組みにとらわれず、のちの『文学論』につながる壮大なテーマに取り組んでいたため、中途半端に報告書など書ける状況ではなかったのだ。
妻・鏡子の回想録『漱石の思い出』にはこうある。
《なんでも留学生の義務として、文部省へ毎年一回ずつ、研究報告をしなければならないのだそうですが、夏目は莫迦正直に、一生懸命に勉強はしているものの研究というものにはまだ目鼻がつかない。だから報告しろったって報告するものがない。しかも文部省のほうからは報告を迫ってくる。そこでますます意地になったのか、白紙の報告書を送ったとかいうことです》
一方で、少し前に、留学中のある理学博士が精神錯乱状態となり、同宿の同僚の蒐集した押し葉を焼き捨てるという事件があった。そのことも、文部省の対応に影響を与えていたとも指摘されている。
漱石は藤代を宿泊させるべく、自身の下宿に案内した。部屋の中へ入ってみると、確かに「留学生の身で、よくもこれだけ買い集めたものだ」と思うほど、書籍が積み上げられている。
「これを見捨てて、他人に後始末を任せるということは、自分でもできそうもない」
藤代はそう思って、漱石に帰国を促すことは断念した。第一、漱石の様子に取り立てて心配な点は見られないのである。
翌日、漱石は藤代をケンジントン博物館と大英博物館の図書館へと案内した。図書館のグリル・ルームで、ふたりはビフテキを食べビールで乾杯した。
「もう船までは送っていかないよ」
漱石はそう言って、藤代と別れた。漱石先生の帰国船は、これよりふた船遅れた日本郵船の博多丸(12月5日ロンドン発)だった。
■今日の漱石「心の言葉」
文学は如何なる必要あって、この世に生れ、発達し、頽廃するかを極めんと誓えり(『文学論』より)

夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵
【県立神奈川近代文学館】
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
■所在地/横浜市中区山手町110
■電話/ 045-622-6666
■休館日/月曜
※神奈川近代文学館の公式サイトはこちら
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。
