3 夏目漱石 2

今から115 年前の今日、すなわち明治34年(1901)11月3日の夜、ロンドン留学中の34歳の漱石は、ザ・チェイス81番地の下宿の応接間にいた。渡辺和太郎(太良)、渡辺伝右衛門(春渓)、桑原金之助(飄逸)とともにテーブルを囲んでいた。

この夜は日本公使館で祝賀会があり、漱石も招待されていたが、それを断って4人で俳句の運座を開いているのであった。のちに主宰者・渡辺和太郎の名から「太郎坊運座」と称される句会の、第1回であった。

渡辺春渓が後年『漱石先生のロンドン生活』に綴ったところによれば、この日の句題は漱石が用意したという。それは「天長節」と「霧」。

「天長節」は今でいう天皇誕生日のことで、この日、11月3日は明治天皇の49回目の誕生日に当たっていた。公使館での祝賀会というのも、このことであった。「霧」はいうまでもなく、霧の都ロンドンからの連想だろう。

このとき、上記の句題にかけて漱石が詠んだ句。

《近(ちかづ)けば庄屋殿なり霧のあさ》
《後天後土菊匂はざる処なし》

前者は、思わずにやりとさせられる漱石らしいユーモアが漂う。後者の「後天後土」は、天と地の神を意味する「皇天后土」の誤記とも推測されている。菊は天皇家の紋章で、天長節の句題につながっている。

他に、この夜の漱石の句として、

《栗を焼く伊太利人や道の傍》
《栗はねて失せけるを灰に求め得ず》

なども渡辺和太郎によって録されているから、「栗」も追加の句題として採られたのかもしれない。

いずれにしろ、ともすると、暗鬱で孤独、閉鎖的な面ばかりが強調されがちな漱石の留学生活に、温和で開放的な別の顔があったことが知れる。春渓も前記の回想録をこう結んでいる。

《自分の接した先生には、先生のいう「江山満目是吾師」の風懐をつねに抱いて、いつも悠々たるものが窺われた。畢竟(ひっきょう)先生のロンドン生活には、人の知れない天地があった》

昼飯代わりにビスケットをかじって書籍代を捻り出す一方で、時にはそれなりに旨いものも食べ、本場のテーラーでフロックコートを誂えるなど、自身に小さな楽しみを与えてもいる漱石先生なのである。

■今日の漱石「心の言葉」
楽(たのしみ)の多いものは危ないよ(『虞美人草』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

【県立神奈川近代文学館】
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
■所在地/横浜市中区山手町110
■電話/ 045-622-6666
■休館日/月曜
※神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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