3 夏目漱石 2

今から100 年前の今日、すなわち大正5年(1916)11月2日、小雨の降る中、東京・早稲田南町の漱石山房(漱石の自宅)を訪れた滝田樗陰(ちょいん)は、漱石に向かって、こんな言葉を口にした。

「『中央公論』の1月号に小説を書いてもらいたいんですが」

漱石のところへやってくると、主に書画ばかり描かせている樗陰が、珍しく本業の編集者の顔に戻っている。

だが、執筆依頼の相手は漱石ではなく、漱石門下の芥川龍之介だった。

龍之介はこの2月、東京帝大の学生仲間とともに刊行した同人雑誌『新思潮』に掲載した小説『鼻』を漱石に絶賛された。これをきっかけに、文壇でも注目される存在となっていた。そろそろ『中央公論』にも書いてもらいたいものだと滝田樗陰は思った。それには、漱石先生を通じて頼むのが一番確かだと考えたのである。

この日はちょうど木曜日であり、夜8時半頃、刷り上がったばかりの『新思潮』の最新号を持って、芥川龍之介と久米正雄、松岡譲がやってきた。彼らは3時間余りを、漱石先生の傍らで過ごすことになった。

ちなみに、この久米正雄と松岡譲は、のちに漱石の長女・筆子をめぐって恋の鞘当てを演じる。破れた久米正雄はその後、鎌倉文士のリーダー格として活躍。松岡譲は筆子と結婚して、義母となった鏡子夫人の語る『漱石の思い出』の筆録を担当することになる。だが、これらのことは皆、漱石先生没後の話である。

時計の針を大正5年(1916)11月2日の夜に巻き戻そう。

漱石はこのとき、滝田樗陰からの依頼に基づき、芥川龍之介に『中央公論』のことを話した。ところが、龍之介はすでに『新潮』と『文章世界』からの原稿依頼を受けてしまっていて、時間的にかなり難しいことがわかった。

『中央公論』からの執筆依頼は書き手としては魅力的なことで、いい話ではあるのだが、無理をさせると筆が荒れてしまう恐れがあるし、健康を損なう可能性もある。ごり押しは禁物と漱石は判断した。

翌日、漱石は樗陰に手紙を書いて状況を伝え、こうアドバイスした。

《今回は是(これ)にて御断念、来春を期し好(よ)きもの御書かせに相成候えば中央公論の為にも本人の為にもよろしかるべきかと存候》

『中央公論』に敬意と配慮を見せながらも、若い才能は大事に育てねばならない。

才能に満ちた若き門下生・芥川龍之介のために、名マネージャーのような役回りまでしている49歳の漱石先生だった。

■今日の漱石「心の言葉」
どうぞ偉くなって下さい。しかしむやみにあせってはいけません(『書簡』大正5年8月21日より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

【県立神奈川近代文学館】
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。
■所在地/横浜市中区山手町110
■電話/ 045-622-6666
■休館日/月曜
※神奈川近代文学館の公式サイトはこちら

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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