サライ.jp

文/砂原浩太朗(小説家)

室町幕府最後の将軍・足利義昭(1537~97)は、知名度のわりに人気があるとは言いがたい存在だろう。戦国時代をあつかったドラマや小説にはたびたび登場するが、よい役回りをしていることは少ない。織田信長に刃向かい追放されたせいで、たいていは、旧体制を代表する凡庸な政治家というあつかいになっている。が、61年という彼の生涯で、信長と密にかかわったのは5年間にすぎない。それ以外の部分もふくめた上で、いちど足利義昭という男の全貌を見つめてみたいと思うのである。

1歳ちがいで仏門に

義昭は12代将軍・義晴の次男。13代を継いだ義輝の同母弟(母は名門公卿・近衛家の出)で、年はひとつ下である。跡継ぎは兄と定まっていたから、はやばやと僧侶になることが決められる。6歳にして奈良・興福寺の一乗院に入り、「覚慶」と名のった。このあと20年以上にわたって彼の年譜は空白となる。父と兄が激動というほかない歳月を送るあいだ(第31回参照)、完全に忘れられた存在だった。

義昭は生涯を通じて、執拗といえるほど将軍位や権威への固執を見せるが、筆者にはこうした前半生がおおきく影響しているように思えてならない。兄・義輝とは母もおなじで、年の差はわずか1歳である。それでいて、幼名すら伝わっていないほど世間的には無視されつづけてきた。興福寺は仏教界に威をふるう大寺院であり、貴種として丁重にあつかわれはしたろうが、本人がそれで良しとするかどうかは別の話である。おのれが先に生まれていればと唇を噛みしめた瞬間もあったのではなかろうか。

その運命が劇的な変転を遂げたのは、1565年、将軍義輝が京を牛耳っていた三好一党に討たれたからである。覚慶は、兄の遺臣・細川藤孝(のち幽斎)らの手引きで一乗院を脱出、近江(滋賀県)・若狭(福井県)を転々としたのち、越前(福井県)の朝倉義景をたよった。義昭とあらためたのは、同地でのことである。

信長・光秀との出会い

上洛して将軍位につくことを切望する義昭だが、朝倉はいっこうに動こうとしない。当主・義景は領国を守れればそれでよいと考えていたのだろう。義昭を歓待はするものの、すすんでことを構える気配はなかった。

焦りをつのらせる義昭たちのもとへ、明智光秀なる男が近づいてくる。美濃(岐阜県)の出と思われる武士で、浪々のすえ朝倉家に身を寄せていた。じぶんは織田信長の正室と縁があるゆえ、義昭との間を取り持とうという。

このとき義昭は、おのれを助け上洛してくれる大名なら誰でもよいという心境だったろう。承諾したあとの運びはきわめて速かった。1568年の7月には信長のもとへ迎えられ、9月に上洛、10月には将軍に任じられている。3歳上にすぎない信長を「御父」と呼ぶよろこびようであり、いかに彼が将軍位を望んでいたかが分かる。

信長をすくった義昭

信長にとっても、義昭と手をむすぶことは大きな利点にちがいなかった。将軍をいただく以上、自分に敵対するものを賊としてあつかえるからである。まさに理想的な関係と思えたが、はやくも翌年の後半にはふたりが仲違いをしたという風聞が記録されている。この件の詳細は不明だが、さらにその翌年にあたる1570年1月、信長は5か条にわたる要求を義昭に突きつけた(後述する17か条の意見書とはべつ)。「諸国の大名たちへ文書を出す折には、信長の添え状をつけること」「これまで義昭が下した判決は、いったん破棄すること」といった内容だが、つまりは義昭が独断で文書を出したり、裁判の判決を下したりしていたのだろう。政治に関することはすべて自分を通してほしいというのが信長の要求であり、前年の仲違いも、このあたりの齟齬による可能性が考えられる。

それでも両者のあいだは、まだ決裂にいたらなかった。この1570年は信長が生涯最大の危機に見舞われた年でもある。六角氏、浅井氏(ともに近江)、朝倉氏、大坂本願寺など四面に敵を受け、絶体絶命というべき窮地に追い込まれたのだった。姉川の戦いなどで勝利はあったものの、このとき最終的に信長をすくったのは義昭である。彼の周旋により敵方との和睦が成立、信長は危ういところを脱しえた。いまだふたりの連携が機能していた証しだろう。

「信長包囲網」の黒幕は、義昭にあらず?

それでも将軍として権威をふるいたい義昭と、おのれこそ実質的な統治者であろうとする信長とでは、破局の避けようがない。義昭は先だって要求された5か条をおとなしく守ってはいなかったようで、1572年の9月には、あらためて17か条の異見書(意見書)が信長によって提出される。これはあからさまに義昭への怒りをたたきつけたもので、ほとんど人格否定の文書といってよい。諸国の大名に名馬などを無心したと責め、家臣への不公平をなじる。ひそかに金銀をたくわえたり、他人の遺産を差し押さえたりしている、というふうな攻撃を延々つらねたあげく、そんなことだから、あなたは「悪御所」と呼ばれているのだと結ぶ。筆者から見ても、ここまで言っていいのかと首をかしげるほどのものだから、義昭本人が激怒したであろうことは容易に察せられる。

折しも10月には甲斐(山梨県)の武田信玄が信長と断交、朝倉・浅井・本願寺らと呼応して上洛の途に就いた。いわゆる「信長包囲網」である。盟友・徳川家康が立ちはだかったものの、手もなく信玄に蹴散らされてしまう(三方ヶ原の戦い)。

従来、この進軍は義昭のもとめに応じたもので、彼こそ包囲網の黒幕とされていた。が、近年の研究では、この説が後退しつつある。包囲をくわだてた者があるとすれば、それは本願寺であり、義昭はぎりぎりまで去就に迷っていたという。この違いはおもに、義昭が信玄へ上洛を呼びかけた書状の執筆年が特定できないことから生じている。これを1572年とするか翌73年とするかで、義昭が包囲網にくわわった時期とかかわり方が異なってくるわけである。

いずれにせよ、信玄の西上が彼の背中を押したことは間違いない。ついに信長打倒をかかげ挙兵した(1573年2月)義昭だが、たのみの信玄は4月に病没。これに先立ち出兵していた朝倉義景も、雪で身動きできなくなることを恐れたのか、はやばやと帰国していた。孤立無援となった義昭はいったん信長にくだるが、7月にはふたたび挙兵。こたびは信長もゆるさず、ついに彼を追放する。室町幕府がほろびた瞬間だった。

おわりなき戦い

追放後、河内(大阪府)・紀伊(和歌山県)に潜伏していた義昭だが、1576年には西国の雄・毛利氏のもとへ身を寄せた。これはなかば強引に押しかけたもので、毛利は彼を受け入れたことで信長との対決に踏み切ったといういきさつがある。義昭はここで持ちまえの文書戦略を駆使、諸国の大名へ反信長蜂起を呼びかける。朝倉・浅井はすでに滅んでいたが、本願寺、越後(新潟県)の上杉謙信、信玄の子・武田勝頼などがこれに応じた。先年のものにくらべれば言及されることは少ないが、これこそ、まぎれもなく義昭が主導した信長包囲網の成立である。

だが、うまく連携がととのわないうちに、まず謙信が病没(1578年)、つづいて本願寺が降伏し(1580年)、武田が滅ぼされてしまう(1582年)。義昭には信長を包囲するというデザインは描けたものの、それを運営していく能力に欠けていたというほかない。彼自身が軍事力を持ち合わせていないことも大きかった。

武田がほろびた年、宿敵信長も本能寺で散る。この変について義昭は、「逃れがたい天命である」ということばを残している。すでに追放されて10年近くがすぎていたが、なおも怨みはおさまっていなかったらしい。幕府再興の夢も捨ててはいなかったろう。彼の執拗さは個人的な資質によるところが大きいだろうが、10代義稙以降の足利将軍がしばしば都を追われ、流浪を余儀なくされたことも念頭にあったのではと思われる。くだんの義稙などは、いちど将軍位を失ったものの、巻き返して15年後に復位をとげた。こうした先例があると、そうたやすく諦められるものでもないだろう。彼のなかで、まだ幕府は終わっていなかったのかもしれない。

義昭が念願の帰京をとげたのは、1587年。すでに51歳となっていた。天下は豊臣秀吉の手に落ちており、さすがに政権復帰への道が絶たれたことも認めざるを得なかったのではないか。1万石をあたえられ、しずかな晩年を過ごすこととなる。出家して昌山(しょうざん)と号し、文禄の役(1592~93)に際しては、秀吉に同行して肥前名護屋(佐賀県)へまでおもむいている。

その死は1597年、秀吉が没する1年まえである。徳川家康が征夷大将軍となり、あらたな幕府をひらくのは、義昭の死からわずか6年後だった。彼がそれを目にしなかったことは、ささやかな救いと言えるのかもしれない。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。

関連記事

ランキング

人気のキーワード

新着記事

ピックアップ

サライプレミアム倶楽部

最新記事のお知らせ、イベント、読者企画、豪華プレゼントなどへの応募情報をお届けします。

公式SNS

サライ公式SNSで最新情報を配信中!

  • Facebook
  • Twitter
  • Instagram
  • LINE

サライ最新号
2020年
11月号

サライ最新号

大人の逸品Online Store

通販別冊
通販別冊

心に響き長く愛せるモノだけを厳選した通販メディア