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文/砂原浩太朗(小説家)

足利13代将軍・義輝(1536~65)の生涯は、ある光芒を放っている。おさなくして将軍位につき、英主の片鱗を見せたものの、道なかばで斃れることとなった。その悲劇的な死がひとびとの哀憐を掻きたてるのだろう。室町幕府最後の花ともいうべき、若き将軍の行路をたどる。

11歳で将軍に

義輝の幼名は菊幢丸(きくどうまる)。織田信長より2歳年下であり、同世代といえる。12代義晴の嫡男であるから、生まれながらの将軍と思われそうだが、ことはそれほど単純でない。応仁の乱(1467~77)以来、内紛を繰りかえしてきた室町幕府では、将軍位の継承にも抗争がつきものとなっており、義晴も政敵の没落によって将軍の座に就けたといういきさつがある。

そのため、彼はことあるごとに息子・菊幢丸が後継者であることを知らしめようとする。生後ほどなく、形式だけではあるが家督をゆずり、翌年にはともに宮中へ参内した。満年齢でいえば1歳にもなっていない時期だから、むろん本人に自覚のあろうはずもない。すべては、この嬰児が13代将軍を継ぐのだと満天下へ示すためである。

当時、幕府は有力大名・細川晴元の庇護によって維持されていたが、1546年、晴元が一族間の内紛に敗れ、京から逃亡する。義晴父子も都をはなれ、近江(滋賀県)の大名・六角氏をたよった。ここで菊幢丸は元服、名のりを「義藤」として、征夷大将軍の位につく。弱冠11歳、しかも都落ちした先での就任である。出発からして波瀾ぶくみというほかない。ちなみに、義輝とあらためるのは8年後だが、本稿では最初からこの名を用いる。細川藤孝(幽斎)や三淵藤英など、彼の側近に「藤」の字がつく名の者が目立つのは、初名の一字をいただいたわけである。

英主の片鱗

将軍となってほどなく都へもどった義輝は、はやばやと将器をしめすことになる。当時、京を牛耳っていた細川家の将が公家へ無態をはたらいたことに怒り、これを放逐したのだった。また、この直後には3000人の兵をひきいて洛中を行進し、都の人々に武威をしめしてもいる。

12歳にして見事な武者ぶりだが、いささか出来すぎの匂いがしなくもない。これは、息子の評判を高めるため、父・義晴がくだんの将と示しあわせた狂言だったという見方もある。筆者もこの説に傾くものではあるが、見え透いた芝居に手もなくだまされるほど京の人々は御しやすくない。義輝に要の役をはたせるだけの器量がそなわっていたのも事実だろう。

が、当時の幕府はすでに弱体化して久しく、英主の資質をぞんぶんに伸ばせる状態ではなかった。庇護者ともいうべき細川晴元と対立や和解を繰りかえすうち、同家の臣である三好長慶(1522~64)が台頭、義輝たちは晴元ともども都を脱出する。潜伏先の近江で父・義晴が病没したのは、1550年。父も40歳という若さだったが、義輝はいまだ15歳の少年にすぎなかった。

信長・謙信と対面す

長慶はまたたく間に京を掌握、以後、義輝の治世は、三好家との関係を抜きに語れなくなる。父が没した2年後、彼は長慶と和をむすび、都へもどる。が、翌年にはみずから長慶を捨て晴元と通じたため、またも京を追われてしまった。長慶から離れたのは反三好派の側近たちが主導したことだが、将軍の嫡子として生をうけた義輝自身も、陪臣(家臣の家臣)である長慶に膝を屈するのは耐えがたかったのかもしれない。以後、じつに5年の長きを近江で過ごすこととなったが、この間に「義輝」と名をあらためている。思うにまかせぬ人生をどうにか切り開いてゆきたい、という願いを込めての改名なのだろう。

1558年、三好と和解し、5年ぶりに都へ帰った義輝は、いよいよ将軍としての手腕を発揮する。軍事力にも経済力にもとぼしい室町将軍だが、権威はいまだ健在だった。帰還後の義輝は、これを最大限に活用しようとしたらしい。翌年には、上洛した上杉謙信(当時は長尾景虎)や織田信長と対面、ついで豊後(大分県)の大友義鎮(宗麟)や安芸(広島県)の毛利元就ら、各地の大名に位をあたえて懐柔した。また、大名同士の紛争を調停することも幾度となくおこなっている。前述の上杉謙信などは、義輝に熱烈な忠誠を誓っているから、狙いどおり、将軍家の存在感はしだいに無視しがたいものになっていったと思われる。

義輝剣豪伝説の真偽は?

この状況を三好の者たちがおもしろく思うはずはない。くわえて、ふしぎなことに、義輝の声望が増すのと歩をあわせるかのごとく、三好家のおもだった将がつぎつぎと世を去っていく。長慶の弟や子が立てつづけに戦死・病死を遂げ、1564年には、とうとう長慶本人が没してしまう。いまだ43歳という壮年だった。相次ぐ死の陰に何者かのたくらみがあったのかどうか検証のすべはないが、義輝が胸おどらせたであろうことは想像にかたくない。いよいよおのれの時代が来る、と拳をにぎりしめる姿が目に浮かぶ。

が、その望みは現実とならなかった。長慶が没した翌年、跡を継いだ義継(長慶の甥)がにわかに義輝の御所を襲撃、彼を討ち取ったのである。力量をしめしはじめた将軍を除こうとしたのだろうが、まだ義輝と義継のあいだに険悪な空気はなく、いささか唐突な感をまぬかれないのも事実。そのため、将軍位を剥奪する意図はあったものの、元々いのちまで取るつもりはなかったとの見方も存在する。おもわぬ抵抗にあったための不幸な結末というわけだが、筆者にはやはり最初から殺害の意図があったと思える。三好勢は義輝の生母や側室なども手にかけており、偶発的な事件にしては徹底している気がするのだ。当主となったばかりの義継が、なんとか勢いを盛り返さんと企んだ謀叛というところだろうか。

さて、義輝といえば剣豪将軍とのイメージを持つ方も多いはず。くだんの襲撃に際し、彼は何本もの名刀を用意、斬れなくなるとつぎつぎ新しい刀に取りかえ、力のかぎり奮戦したという。これが剣豪伝説の端緒となったのだろう。義輝が新当流の開祖・塚原卜伝(ぼくでん)から秘伝「一つの太刀」を伝授されたとするのがそのストーリーだが、これは軍記ものにある話。また、義輝だけでなく、父・義晴にも剣を指導したというから、秘伝を伝えられたのが事実としても、卜伝が貴人相手に社交をおこなった可能性が高い。筆者自身にも剣豪であれかしという願望があったことを告白しておくが、残念ながら史実と見なすには根拠が薄いとするのが妥当なところである。

だが、彼が天下の人士から哀惜をあつめたことは間違いない。謙信はじめ諸国の大名や朝廷の公家・女官などが義輝の死に怒りと悲しみをあらわにした記録が残っている。また、死の2年後におこなわれた供養には、7、8万もの人々がつどったという。壮烈な死を遂げたことも大きいだろうが、彼にはどこか人を惹きつけるカリスマ性のようなものが備わっていたのだろう。剣豪伝説も、そうした資質が引き寄せた置きみやげなのかもしれない。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。

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