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8月30日から再開される「麒麟がくる」。後半戦で注目の登場人物は、関白・近衛前久(このえ・さきひさ)。五摂家筆頭近衛家の当主でありながら、破天荒で滅茶苦茶な人生を送った人物だ。「麒麟がくる」では、映画「キングダム」で秦・始皇帝の弟・成蟜(せいきょう)をふてぶてしくも濃厚に演じた本郷奏多がその役を演じる。前久の波乱の人生をかつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。

* * *

近衛前久を演じる本郷奏多。前久をどう描くのかが後半戦の注目ポイント。

永禄11年(1568)9月、織田信長は足利義昭を擁して上洛を果たした。義昭を、室町幕府の第15代将軍の座に着けるためだった。義昭は、兄である13代将軍義輝が三好三人衆によって殺害されたため、難を逃れて朝倉義景、ついで織田信長を頼り、将軍の座を狙っていたのだ。

ところが、義昭の父で12代将軍だった足利義晴の弟義維(よしつな)には男子・義栄(よしひで)がいた。義昭には従兄弟にあたる。この義栄が三好三人衆によって推戴され、義昭より一足早く14代将軍の座についていたのだ。

義昭にとって、義栄はさぞかし目障りな存在だったろう。義昭が信長を後ろ盾に上洛を果たしたとき、将軍の義栄は三好三人衆とともに京を追われ、阿波国(徳島県)に逃れていたらしい。そしてまもなく義栄は病死してしまう。

この段階で、すでに義栄は将軍を免官されていた可能性もあるが、確かなことはわからない。いずれにせよ、義昭にとってはまことに都合よく、義栄はこの世を去った。義昭はその翌月に、実にすんなりと15代将軍に就任した。

このとき、朝廷のトップ——律令官制上の最上位である関白だったのが、近衛前久だ。近衛家は摂政関白の座に就くことができ藤原氏の名流「五摂家」の中でも筆頭に位置する、名門中の名門だ。関白になるべくしてなった前久は、足利義輝の殺害後、三好三人衆と接近し、彼らが推す足利義栄の将軍就任に便宜を図っていた。

義昭は、当然のことながら前久を敵視する。ライバルである義栄の将軍就任に便宜を図っただけではなく、もしかすると兄義輝の殺害にも関与していたのではないかと。

義昭と前久の確執はあきらかとなり、前関白の二条晴良も前久の罪を追及するようになる。ついに前久は大坂に出奔し、関白職を剥奪された。

上杉謙信と意気投合し、東国へ〈出陣〉

この近衛前久、名門の御曹司で関白の座にまで上り詰めたエリートであるにも関わらず、実にユニークな個性と経歴の持ち主だった。

わずか満4歳にして元服し、正五位下に初任官を果たすと、18歳にして関白と左大臣、そして藤原氏全体の家長である藤氏長者の座を手に入れる。左大臣は事実上の最高位であり、これより上は名誉職的な太政大臣しかいないのだから、官制上は18歳で上り詰めてしまったことになる。

ところがこの前久、実に行動的というか、向こう見ずというか、横紙破りというか、トンデモない行動にでる。

永禄2年(1559)、上洛を果たした越後の上杉謙信(当時は長尾景虎)と意気投合して盟約を結ぶ関係となる。するとその翌年、あろうことか謙信を頼って越後に下向してしまった。朝廷の最高位にある人間が、頼まれてもいないのに京を離れて越後に下向するなど、前代未聞。関白在任中の公家が東国に下向すること自体、歴史上、初めてのことだった。

いったいぜんたい、前久の目的はなんだったのか。

前久が越後に到着した永禄4年9月、謙信は関東に出陣中だった。関東管領の上杉憲政からの出陣要請を受け、北条氏康を討つためだった。前久は、雪解けを待って翌永禄4年の5月に関東に入り、謙信と連携して下総(千葉県)古河城に入り、半年近くも古河城に逗留することになる。

上杉憲政から関東管領職と上杉氏の家督を譲り受けた謙信は、怒涛の勢いで関東を席巻し、北条氏康を本拠の小田原城に追いつめた。しかし、甲斐の武田信玄が北条氏に呼応して上野国(群馬県)に兵を出し、また関東の諸勢力も表面的には謙信にしたがったが、必ずしも全面的に服従していたわけでもなかった。

謙信の関東平定事業は、実際にはなかなかスムーズには進まなかった。そして永禄5年の2月頃、謙信はいったん越後に引き上げる。そのとき、前久もともに越後に帰ったが、まもなくその越後も離れて京にもどってしまう。そして、これを最後に謙信との交流も途絶えている。

結局のところ前久は、なんのために越後に下ったのか。

『流浪の戦国貴族 近衛前久』(中公新書)著した谷口研吾さんは、謙信と前久は、ともに関東平定がもっとたやすくできると甘い見通しをたてていたと推定する。そして、関東平定後、謙信は前久とともに上洛を果たし、室町幕府を応仁の乱以前のように立て直すプランを立てていたのではないかと、谷口さんは推測している。現職関白の権威は、その事業をより強力に推し進めるバックボーンになると踏んでいたのではないか、ということだ。

しかし、実際の関東平定は一筋縄ではいかなかった。前久は目論見が完全に外れたことに失望し、京へと引き返したのだ。

新将軍となった足利義昭の恨みを買い、京を追われ関白の座を失った前久。しかし、その義昭と信長との友好関係も、長くは続かなかった。元亀4年(天正元年。1573)、義昭は反信長の兵をあげた挙句、京を追放される。

【混沌とした戦国九州の調停役として下向。次ページに続きます】

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