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文/砂原浩太朗(小説家)

明智光秀像(明智城跡)

明智光秀(?~1582)は謎多き武将である。最大の疑問は、「なぜ本能寺の変を起こしたか」ということだろうが、その前半生について分かっていることも、実はほとんどない。ドラマや小説で繰りかえし描かれてきた光秀伝の虚実は、いかなるものなのだろうか。

光秀は老将だった?

明智光秀が歴史上に姿をあらわすのは、永禄11(1568)年。足利15代将軍となる義昭が、織田信長のもとへ身を寄せることになった折である。後述するように、両者の橋渡しをつとめたのが光秀だった。

じつは、これ以前の彼について、たしかな史実はほぼない。われわれが漠然と思い描く光秀のイメージは、大半が「明智軍記」という物語に拠るもの。が、この書は元禄年間(1688~1704)の刊行だから、彼の死後ゆうに100年が経っている。著者も不明であり、内容にも明らかな間違いが散見されるから、資料的価値については疑問符がつくものなのだ。以下、現在一般に流布している光秀像について検証してみたい。

まず明智家は美濃(岐阜県)の守護だった土岐氏の支流にあたるとされるが、これも研究者によっては否定する向きがある。ただ、本能寺の直前、謀叛の決意を詠みこんだ「ときはいま……」(「土岐氏の一門である自分が天下を取る」意)なる歌からしても、光秀自身が土岐氏とのつながりを押し立てていたのは事実だろう。また後年、彼は織田家中にあって幕府や朝廷との折衝にあたっている。かなりの教養がなければつとまらぬ役目だから、それなりの血筋である可能性は、むしろ高いのではなかろうか。

出身地についても美濃説、近江(滋賀県)説、若狭(福井県)説などがあるが、同時代人の日記や記録から、彼が美濃の出だと思われていたことはたしか。くわえて、家臣にも美濃出身者が多く、妻も同国の土豪・妻木氏の出(第26回参照)だから、美濃の人であることは信じてよいように思われる。現在、ふたつの地が出身地候補として有力視されており、岐阜県恵那市および可児市がそれ。残念ながら、いまのところ、どちらも決定的な証拠に欠けている。父親の名も光綱、光隆、光国、あるいは明智氏でないなど諸説入り乱れており、確定にはほど遠い。

また生年も不詳であり、しばしば1528年生(信長より6歳上)という記述を目にするが、これも前述の「明智軍記」によるもの。比較的資料性が高い「当代記」という書物では、本能寺のとき67歳とするから、かんぜんに老将といっていい。こうなると、かなりイメージが変わってくるのではなかろうか。

分からないことづくしで途方に暮れる思いもいだくが、これが歴史的に見た明智光秀の前半生だというほかない。光秀伝のさきがけとして定評ある「明智光秀」(高柳光寿著)などは、前述の1568年から筆を起こしているほどである。

光秀・帰蝶いとこ説の真偽は

「明智軍記」では、1556年、美濃を支配していた斎藤道三とその子・義龍(同書では、義龍の子・龍興と誤記)があらそった折、義龍方から攻撃を受けた光秀が故郷を脱出したとする。これまた、彼が道三につかえていたという証しはないが、美濃の出ならば無関係ではいられまい。何らかのかたちで服属していてもふしぎはない。

次いで廻国修行に出た光秀は、奥州から九州まで足をのばし、上杉、武田、北条、伊達、島津、長宗我部など錚々たる戦国大名の領国を経めぐるというのが、同書のストーリー。このくだりも、当時すでに戦死していた今川義元の名が出てくるなど荒唐無稽であり、事実と見る研究者はいないが、物語としては興趣にみちた展開といえる。「明智軍記」の光秀像が流布したのも、ひとつには読者の心をとらえたからだろう。が、経緯はともかく、最終的に越前(福井県)朝倉家につかえたのは確かと思われる。

永禄8(1565)年、足利13代将軍義輝が、家臣である三好・松永一党に討たれる。出家していた弟の義昭はからくも脱出、朝倉家をたよったものの、当主・義景に上洛して天下を鎮める意志はなかった。再三言及している1568年は、義昭が越前で悶々とした日々をすごしていた時期にあたる。このとき、朝倉家へ身を寄せていた光秀が、義昭の側近・細川藤孝(のち幽斎)に近づいたのだった。このあたりの事情は、細川家の記録に残っているものだから、信憑性が高い。

光秀は「義景どのは、たのみにならぬお方です。自分は信長どのの奥方に縁があり、同家へ招かれている。よろしければ、義昭さまとの間を取り持ちましょう」と申し出たという。縁というのは信長の正室・帰蝶(濃姫)といとこ同士であること、と了解される読者も多いだろうが、実はこのふたりの血縁関係もそういう説があるという程度で、確証はない。が、この記録が傍証のひとつにはなるだろう。

信長配下で出世頭に

折しも、朝倉家中に光秀を讒言する声があがり、彼は越前を離れることとなった。保守的な大国のつねとして、よそから来た者をこころよく思わぬ風潮があったことは容易に推し量れるが、タイミングがよすぎる気もする。スムースに織田家へ移るため、あえて讒言を利用した、といえば小説的すぎるだろうか。

織田家へ身を投じた光秀は、さっそく義昭とのあいだを周旋する。義昭が信長のもとへ移ったのが1568年の7月、翌々月の9月には織田軍が上洛し、10月には将軍位に就いているから、信長の素早さには胸のすく思いを禁じ得ない。義昭を擁したため、信長は並みいる戦国大名のなかで一頭地を抜く存在となった。光秀の功績は甚大というべきだろう。

晴れて信長の配下となった光秀だが、同時に義昭の臣下でもあったという見方がある。こうした両属の立場はほかにも例のあることだが、いずれにしても京にあって幕府や公家たちへの窓口となったらしい。木下(のち羽柴、豊臣)秀吉とともに都の行政にたずさわっていた時期があったことも確認されている。

信長と義昭の蜜月はみじかく、はやくも5年後の天正元(1573)年には義昭が挙兵して敗れ、室町幕府は滅亡する。このとき光秀が去就に惑った形跡はない。すでに信長から近江へ所領も与えられ、坂本に居城を築いていた。ちなみに、織田家中でみずからの城を持てたのは、光秀が最初である。それも家臣となって3年ほどしか経っていない時期のことだから、いかに彼が重用されていたか分かる。幕府や朝廷との折衝役として、他に代えがたい存在だったのだろう。光秀も感奮したに違いない。信長をあるじと仰ぐことに迷いはなかったと思われる。

が、幕府の滅亡から本能寺の変まで、すでに10年を切っている。この間になにが起こり、出世頭だった光秀を謀叛へ駆り立てたのか――。それはまた、べつの物語というしかない。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。著書に受賞作を第一章とする長編『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』(いずれも講談社)がある。

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