戦後、ひたすら奈良・大和路の風景、仏像、行事などを撮り続けた写真家、入江泰吉(いりえ・たいきち 1905~1992)。その後の写真界に多大な影響を与えた彼の作品は、入江泰吉記念奈良市写真美術館に保存・展示されている。現在、同美術館では入江泰吉生誕110年を記念して『回顧 入江泰吉の仕事』展を開催。戦前の文楽の写真から亡くなる直前の作品まで、全127点が鑑賞できる。その中から代表的な作品を取り上げ、入江泰吉の活躍の軌跡と大和路の知られざる魅力を案内する。

 

「室生寺金堂十一面観音像」(1977年)。入江お気に入りの仏像だった。

入江泰吉の代表作「室生寺金堂十一面観音像」(1977年)。

書斎で執筆にあたる入江泰吉。撮影=中村利文

書斎で執筆にあたる入江泰吉。撮影=中村利文

 

疎開から戻った仏像

会場に入ると1枚の小さなスナップ写真が目に入る。「疎開先から戻る東大寺法華堂四天王像」である。入江は敗戦の年の11月、偶然この現場に遭遇した。

太平洋戦争末期、国は大都市の国宝級の文化財を戦火から守るために、それらを「疎開」させる方針を打ち出した。奈良では、東大寺や興福寺、法隆寺などの仏像が郊外の民家や社寺に移された。入江が出会ったのは、今まさに疎開先から戻ってきたばかりの東大寺法華堂(三月堂)の四天王像である。

「疎開先から戻る東大寺法華堂四天王像」。白い布に包まれた仏像が堂内に運び込まれるところ(撮影1945年11月 *)。写真提供/入江泰吉記念奈良市写真美術館(*印は展覧会の展示作品)。

「疎開先から戻る東大寺法華堂四天王像」。白い布に包まれた仏像が堂内に運び込まれるところ(撮影1945年11月 *)。写真提供/入江泰吉記念奈良市写真美術館(*印は展覧会の展示作品)。

 

薄暗い堂内に横たえられた仏像はどこか痛々しく、入江がそっと心のなかで合掌していると、次のようなひそひそ話が耳に入ってきた。

「アメリカが京都や奈良を爆撃しなかったのは、日本の古美術品が欲しかったからで、おそらく、この三月堂の仏さまも持って行くに違いなかろう」(『入江泰吉自伝』より引用)。

その夜、入江は思った。「そうだ、自分はカメラマンではないか。せめて(仏像を)写真に記録しておこう。いや、そうすることが私の使命ではないか」。

入江は戦前、大阪で写真家としてデビューし、主に文楽の作品で名を成していた。しかし、昭和20年6月の大阪大空襲で自宅を焼失。カメラ機材はもとより、それまでの作品も一部の文楽のネガ以外すべて失っていた。人間として最も充実した40歳のことである。

「東大寺戒壇堂広目天像」モノクロ時代の代表作の1枚(1945年頃 *)。

「東大寺戒壇堂広目天像」モノクロ時代の代表作の1枚(1945年頃 *)。

 

仏像の撮影を決意した入江はすぐに大阪の闇市に向い、大型カメラや照明器具、使用期限切れの乾板などを買い求めた。そして最初に撮影したのが、東大寺・戒壇堂の四天王像である。その中の1枚「広目天像」は、入江の代表作として今回の展覧会にも展示されている。

ファインダー越しに広目天を見た時、入江はその目の鋭さに思わず身震いしたという。

こうして奈良の仏像写真家への道が始まった。

当初、入江は仏像をたんなる彫刻作品と見なしていた。しかし、数多くの仏像と接する中で、「仏像は本来芸術作品であるより前に、祈りを捧げる神聖な偶像である」ことに気がついた。

仏師が「一刀三礼」(いっとうさんらい)しながら仏像を彫るように、入江は祈るような思いで大和一円の仏像を撮り続け、2年ほどで奈良の主だった仏像を撮り終えた。すべてモノクロだが、その中に彼の代表作となる傑作写真が数多く含まれている。

 

「室生寺金堂十一面観音像」(1977年)。入江お気に入りの仏像だった。

「室生寺金堂十一面観音像」(1977年)。入江お気に入りの仏像だった。

 

やがて世はカラー写真の時代を迎える。入江は当初、カラーに馴染めなかった。周囲の勧めもあり、やっと本腰をあげて取り組むことにした。かつてモノクロで撮った仏像を改めてカラーで撮影することに挑戦した。構図はモノクロ時代とあまり変わらないが、ライトの調子にはいっそう神経を使ったという。

入江の膨大な作品を調べると、気に入った仏像は何度も撮影していることがわかる。彼の好き嫌いの基準は多少気まぐれともいえるが、何度撮っても仏像が秘める神秘さ、信仰の奥深さが表現できない、そんな思いがあったに違いない。

第1回差し替えリサイズー6

「新薬師寺伐折羅(ばさら)大将像」(1952年頃 *)。厳しい顔の仏像にはライトを強めに当てたという。

第1回差し替えリサイズー7

「興福寺旧東金堂本尊仏頭」(1960年頃 *)。白鳳時代の大らかな雰囲気をたたえた仏像で、入江のモノクロ時代の代表作。国宝。


上司海雲との再会

入江泰吉の撮影活動を支えた人物がふたりいる。ひとりは文芸評論家の亀井勝一郎(1907~66)、もうひとりは後に東大寺別当(管長)となる上司海雲(かみつかさ・かいうん 1906~75)である。

入江は大阪の空襲ですべてを失い、妻の光枝を連れて奈良に引き上げた。失意の中、目的もなく町をぶらつく日が続いた。そんなある日、1軒の古書店で『大和古寺風物誌』に出会った。昭和18年発行の亀井勝一郎の代表作である。

「亀井勝一郎」(1952年頃)。入江は志賀直哉から紹介され交流を深めた。

「亀井勝一郎」(1952年頃)。入江は志賀直哉から紹介され交流を深めた。

亀井の大和の古代仏教美術に対する情意あふれる文章は、すさんでいた入江の心に深く沁み込んだ。その本を片手に、入江はふるさと奈良の古寺遍歴を思い立つ。それは、後の仏像撮影のいわばトレーニングのような役割を果たした。

「上司海雲」(1970年)。観音院住職を経て第206世東大寺別当となる。

「上司海雲」(1970年)。観音院住職を経て第206世東大寺別当となる。

 

もうひとりの上司海雲は入江の幼友達である。東大寺の塔頭(たっちゅう)持宝院の生まれ。龍谷大学に進み、卒業後、志願兵として入隊し朝鮮半島に送られた。

ふたりの交流は20年以上途絶えていた。昭和21年が明けて間もなく、法華堂の前で偶然に再会。その時、上司は観音院の住職を務めており、周囲から「観音院さん」と呼ばれ親しまれていた。

上司は文学・芸術を好み、破戒僧を自認していた。とりわけ古い壺が大好きで、玄関や庭先にはいつも大小100個くらいの壺がゴロゴロしていた。それを見た歌人の吉井勇は格好の渾名をつけた。曰く「壺法師」。

上司は戦前から文豪志賀直哉(1883~1971)と深く交流していた。志賀は大正14年(1925)から昭和13年(1938)まで、奈良市高畑町に居を構えていた。昭和21年6月、志賀が久しぶりに奈良へやってきたのを契機に、上司が世話人となって「天平の会」が結成された。入江は上司から志賀を紹介され、会員となった。

入江は上司と志賀という太いパイプを通して、評論家の小林秀雄、歌人で東洋美術研究家の会津八一(あいづ・やいち)、さらには生涯の友となる洋画家の杉本健吉などと親交を結ぶようになった。彼らとの交流は、入江に無限の養分を注入した。入江作品の特徴である陰影の深み、澄み切った抒情性などは、その養分に負うところが多い。


古代人の心を写す

 
志賀直哉は昭和13年(1938)、奈良の印象を次のように語った。「奈良は名画の残欠が美しいように美しい」。

太古の昔から、奈良では多くのドラマが展開されてきた。大和路の至る所に歴史のひとコマが眠っている。しかし、それを取り囲む風景は時代とともに変化する。その変化は、必ずしも歴史の舞台にふさわしいものではない。時には美を阻害することもある。

そんな変わりゆく奈良の風景を、志賀は「名画の残欠」と表現した。入江泰吉の風景写真は、まさにその名画の残欠といえる。

「大津皇子の眠る二上山」(1970年 *)。入江は落日の二上山を繰り返し挑戦している。

「大津皇子の眠る二上山」(1970年 *)。入江は落日の二上山を繰り返し挑戦している。

 

今回の展示作品に「大津皇子が眠る二上山」という1枚がある。二上山は今では「にじょうさん」と読むが、大和言葉の「ふたかみやま」のほうがふさわしい。その二上山は入江が何度も取り組んだテーマである。

昼間見る二上山はラクダのこぶのような雄岳と雌岳が印象的とはいえ、ある意味何の変哲もない姿である。しかし、その中腹には悲劇の皇子として知られる大津皇子(おおつのみこ663~686)の墓がある。大津皇子は天武天皇と大田皇女の間に生まれた。幼年にして学を好み、長じて武を好んだ。誰もが認める次期天皇の有力候補だった。

686年、父・天武天皇が崩御。すると天武のもうひとりの皇女・鵜野讃良(うののさらら、後の持統天皇)は、我が子の草壁皇子(くさかべのみこ)を即位させようとした。大津皇子は「謀反の意あり」との嫌疑で逮捕され、死に追いやられてしまう。

二上山にはそんな古代の血なまぐさいドラマが隠されている。入江泰吉は古代の歴史をひもときながら、大津皇子の無念な思いを落日で表現しようとした。

二上山の雄岳と雌岳の間に日が沈むのは、1年のうちわずかしかない。しかも雨や曇りの日では、イメージ通りの夕陽とならない。入江は何日も同じ場所に通い続けた。そしてある日、赤く染まった空に黒々とした雲が二上山に向って押し寄せてきた。
「これだ!」入江はカメラを構え直し、シャッターを押した。

「石舞台より二上山」(1982年 *)。入江は様々な地点から二上山を撮り続けた。

「石舞台より二上山」(1982年 *)。入江は様々な地点から二上山を撮り続けた。

 

風景の中の「気配」

入江泰吉は奈良・大和路の仏像を撮影するとともに、大和路一円の風景撮影にも積極的に取り組んでいた。後の入江の作品を見ると、むしろ風景写真家としての評価が高い。

しかし、入江自身はことさら被写体を区別しているわけではない。彼は風景について語る時、しばしば「気配」というキーワードを用いる。二上山の写真で見たように、眼前の風景をそのまま撮るのではない。むしろ目に見えない「気配」を写し込みたいと入江は言う。そしてその「気配」の撮影は、仏像にも通じると述べている。

「山の辺の道 檜原神社付近」(1973年頃 *)。入江が何度も歩いた古代の道である。

「山の辺の道 檜原神社付近」(1973年頃 *)。入江が何度も歩いた古代の道である。

 

入江が好んだ風景に「山の辺の道」がある。奈良盆地の東側の山並に沿って南北に延びる古代の道である。沿道はまさに古代史の舞台そのものである。

入江がこの道を好んだのは、たんに風景が古びているからではない。もしかしたら撮影の合間に万葉人がひょっこり顔をのぞかせるのではないか、そんなロマンにあふれているからである。

「戸張にゆれる影」(1966年頃 *)。お水取りシリーズの代表作。

「戸張にゆれる影」(1966年頃 *)。お水取りシリーズの代表作。

 

入江泰吉の代表作に「東大寺二月堂お水取り」の記録がある。お水取りは東大寺の「修二会」(しゅにえ)という仏教行事で、準備期間を含めると約2か月にも及ぶ。始まりは奈良時代の天平勝宝4年(752)。以来、1260年以上もの間、一度も途絶えたことはない。

入江は、すでに昭和21年からお水取りの撮影に取り組み、以後20数年間記録し続けた。その膨大なフィルムは、時を重ねるに従って貴重さを増している。

入江泰吉の全仕事を振り返ってみると、仏像、風景、ドキュメント、万葉の花などと、じつに広範囲であることがわかる。

次回からは東大寺や法隆寺など奈良の主な名刹を巡りながら、入江泰吉の展示作品を紹介する。

 

入江泰吉記念奈良市写真美術館の外観。入江泰吉が急逝した1992年4月に開館。設計は黒川紀章が手がけた。

入江泰吉記念奈良市写真美術館の外観。入江泰吉が急逝した1992年4月に開館。設計は黒川紀章が手がけた。

 

入江泰吉記念奈良市写真美術館
生誕110年「回顧 入江泰吉の仕事」
会期/2015年10月10日(土)~12月23日(水・祝)
住所/奈良市高畑町600-1
TEL/0742・22・9811
開館/9時30分~17時(入館は16時30分まで)
観覧料/一般500円
交通/JR・近鉄奈良駅から市内循環バス「破石町」(わりいしまち)下車、徒歩東へ約10分、新薬師寺西側
入江泰吉記念奈良市写真美術館URL/http://irietaikichi.jp

展覧会の展示作品と未発表作品など367点が収録されている『回顧 入江泰吉の仕事』(3800円+税)。入江泰吉記念奈良市写真美術館で購入できる。

展覧会の展示作品と未発表作品など367点が収録されている『回顧 入江泰吉の仕事』(3800円+税)。書店または入江泰吉記念奈良市写真美術館で購入できる。

 

文/田中昭三
京都大学文学部卒。編集者を経てフリーに。日本の伝統文化の取材・執筆にあたる。『サライの「日本庭園完全ガイド』(小学館)、『入江泰吉と歩く大和路仏像巡礼』(ウエッジ)、『江戸東京の庭園散歩』(JTBパブリッシング)ほか。

 

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