文・写真(クレジットのないもの)/田川敬子(スペイン在住)

写真提供:Juan Manuel Suarez Japón

スペイン語で日本を意味するハポン(JAPÓN)。なんとスペインには、「ハポン」という苗字をもつ人々が存在する。この苗字を名乗る人々の先祖は、400年以上も前のいにしえに日本から来たサムライだという。

グアダルキビール川沿いに立つサムライの銅像

スペイン南部のアンダルシア地方は、フラメンコや闘牛、ひまわり畑に白い家とまさに「日本人がイメージするスペイン」そのものの風景が広がる。そんなアンダルシア地方を流れるグアダルキビール川のほとりにあるのがコリア・デル・リオという小さな町だ。コリア・デル・リオとその周辺には、ハポン姓の人たちが700~800人住んでいる。

グアダルキビール川は大西洋に繋がっている。15世紀末にコロンブスが新大陸に到達した後、現地からの宝物はこの川を遡り、セビーリャの港で陸揚げされた。いわば新大陸と旧大陸をつなぐ重要な航路の一部だったのだ。

近くに橋がないのか、今でも渡し船が対岸と行き来する。 写真提供:Juan Manuel Suarez Japón

グアダルキビール川沿いにある公園には侍の銅像が立っている。支倉常長像である。そう、この町でハポン姓を名乗る人々の先祖は、この支倉常長に縁があるというのだ。その理由は17世紀初めに遡る……。

グアダルキビール川のほとりに立つ宮城県より寄贈された支倉常長像。
写真提供:Juan Manuel Suarez Japón

伊達政宗の命により編成された慶長遣欧使節は1613年10月に月の浦(現在の宮城県石巻)を出港する。正使は家臣の支倉常長、副使はスペイン人宣教師のルイス・ソテロ。目的は諸説あるものの、スペイン領メキシコとの通商交渉とローマ教皇への謁見だったといわれている。

報われなかった、7年におよぶ長旅

一行はまず当時スペイン領だったメキシコのアカプルコに到着した。その後、陸路で大西洋側のベラクルスに移動し、再出航。スペインに着き、グアダルキビール川の河口で船を乗り換えてコリア・デル・リオに上陸する。すでに日本を出てから1年の歳月が過ぎていた。そこで数日過ごした後、セビーリャを経由してマドリードでフェリペ3世国王に謁見。支倉常長はこの時にマドリードで洗礼を受けている。そしてローマへ向かい、1615年9月には教皇パウロ5世との対面を果たした。

支倉常長が洗礼を受けたマドリードのデスカルサス・レアレス修道院。
写真提供:胡桃澤 恒二

これだけの時間を費やしたものの交渉はうまくいかず、一行はコリア・デル・リオに戻り、国王からの親書を待つことになった。この時、使節団の数人が故郷には戻らずここにとどまる決断をしたと考えられている。

町の高台にある聖堂の名は、使節団がはじめに太平洋を渡った船と同じサン・フアン・バウティスタ

支倉常長は、1617年6月にスペインを出て帰還のためにメキシコに向かった。その後フィリピンのマニラで2年の足止めを食った後、1620年9月に故郷の土を踏む。しかし、その当時日本では禁教と鎖国が進んでいた。使命により受洗し、当時としては前代未聞の旅をした7年間の苦労は一体なんだったのか。無念極まりなかったことだろう。帰国からたった2年で亡くなり、そして息子の代で家臣にキリスト教徒がいた罪でお家取り潰しになってしまう。あまりにも報われない結末だ。なお、副使だったソテロはマニラから長崎への密航が見つかり、火刑により殉教している。

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