今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。

【今日のことば】
「三十貫ある相手だって別に大木のように根が生えているわけではない。畳の上に立っているだけなんだから練習でくずせますよ」
--石黒敬七

先頃、体重無差別で闘う柔道の全日本選手権に、リオ五輪73キロ級金メダリストの大野将兵選手が出場していた。結果は初戦敗退。相手は90キロ級の大きな選手で、本人は一本負けで敗れても真っ向勝負した満足感があったとも報じられていた。

が、期待して見ていたファンの立場からすると、最後は結局、体力負けしてしまったような印象ものこり、残念な思いがある。

上に掲げたのは、柔道家の石黒敬七のことば。昭和39年(1964)の東京五輪を前に、オランダのヘーシンク対策に悩む日本柔道界への意見を求められ、朝日新聞紙上に寄せた談話の中の一節だ。

相手の体がいくら大きくても、大地に根を張った大木ではないのだから、取り組み方次第で崩すことはできる、というわけ。ちなみに、1貫は3.75キロだから、30貫は112.5キロになる。

石黒敬七は明治30年(1897)新潟・柏崎の生まれ。中学時代から柔道をはじめ、上京すると講道館に入門。傍ら、進学した早稲田大学の柔道部では主将をつとめる猛者となった。

大正14年(1925)から昭和8年(1933)にかけて、柔道普及のため渡欧しフランスはパリに滞在。市内に道場を開く一方で、ソルボンヌ大学や警察、軍人施設に赴いて柔道を指導し、ルーマニア、エジプト、トルコ、ギリシアなどの各国にも出向いて柔道を広めた。

その過程では、レスリング重量級の元世界チャンピオンをはじめ、腕に覚えのある格闘家から真剣勝負の挑戦を受ける場面もあり、それらを得意の空気投げや巴投げなどで投げ飛ばし、柔道の素晴らしさを伝えたのである。

石黒は同じ談話の中で、こんなふうにも言っている。

「柔道のよさは、昔からいわれる『柔よく剛を制す』にあると思っている。このごろは『剛で剛を制す』場面があまりに多すぎる。これでいくと力の強い身体の大きなものには理屈上負けるわけだ。そんなことはない。創意で打開の道があるはずだ。例えばいきなり大技をぶっつける。それも相手かまわずだ。そして通じなくてもそれを変えようとしない。元来攻撃の技というものは小技でくずしておいて大技で投げるものなんだ」

柔道選手や指導者には、いまさらのこととは承知しながら、先達の言として、いま一度ふれておきたくなった。

大野選手の志や、よし。だが、酷なようだが、その先にもうひとつ、さらなる創意と修練の余地はあるのではないか。

ただの昔話や絵空事ではない。近年でも、古賀稔彦選手が同じ大会で、大きな相手を次々と打ち破って決勝に進出。最後は最重量級の小川直也選手に屈したものの、準優勝に輝いたという記録がある。小よく大を制す工夫と鍛錬は、そのまま、2度目の東京五輪(2020年)に向けた柔道界全体の強化につながるはずだ。期待は大きいのである。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。

 

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