夏目漱石、自殺した教え子の妹の結婚披露宴に出席する。【日めくり漱石/12月22日】

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今から104 年前の今日、すなわち大正元年(1912)12月22日は日曜日で、夕方5時から、漱石の門弟の安倍能成の結婚披露宴が予定されていた。当然のことながら、漱石も招待を受けていた。

会場は、東京・神田の西洋料理店の「三河屋」。漱石は定刻前に会場に着くよう、少し余裕をもって、早稲田南町の自宅を出た。街角の日陰には、2日前に降った雪が、わずかながら溶け残っていた。

安倍能成は、この翌日の12月23日の誕生日を迎えると満年齢で29歳。のちには一高校長、学習院長などを歴任し教育家としても重きをなすのだが、この時期はまだ教職につかず、文筆などで生計を立てている。10歳年下の花嫁・恭子は、一高在学中に日光の華厳の滝から身を投げて世間を驚かせた藤村操の妹だった。

安倍能成は野上豊一郎ともども藤村操の一高の学友であり、藤村操の自殺の後、当時まだ6、7歳の子供である恭子を知った。それが10余年の時を経て、夫婦として結びつくのが、男と女の縁の不思議だった。

安倍能成が一高で教壇に立つ漱石の薫陶を受けた如く、藤村操も漱石の教え子のひとりだった。授業に身の入らぬ態度を見かねて、漱石は彼を叱ったことがあった。

まさかその態度の裏側に、生命を絶つほどの人生に対する深い哲学的懊悩が抱え込まれていたとは、漱石は思いもよらなかったのである。

媒酌人は、宗教哲学者の波多野精一夫妻。出席者は20人程度の、身の丈に合った温かな宴であった。

披露宴の招待状は、2週間前に漱石のもとへ届いていた。漱石はすぐに祝辞と出席の意向を伝えた。

《拝復 愈(いよいよ)御結婚のよし御目出度(おめでたく)存候 御披露の御案内難有(ありがたく)候(略)猶(なお)御祝として何か差上度も急に思つきも無之(これなく)荊妻とも談合の上其うち寸志を表し度心得に候(略)新世帯何角(なにかど)御不自由と存候何か手前方にて出来候事何なりと御申聞相成度候 先は御祝詞旁(かたがた)御答まで》

安倍能成とすれば、なんともありがたい手紙だったろう。

「何かできる事があったらするから連絡しておいで」というのも、ただの口先の社交辞令ではない。漱石は、数日前に自宅に据えつけた電話番号(番町四五六〇)も付記しているのである。

新婚夫婦の生活が落ち着いた翌年3月1日には、夫婦を自宅に招いて夕食のもてなしをしている漱石夫妻である。

■今日の漱石「心の言葉」
妻を娶る何れの時に於てかすべき。青年は未(いま)だし。老年は既に遅し(『吾輩は猫である』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

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神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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