死期迫る病床の夏目漱石に、妻・鏡子が見せた気丈な優しさ。【日めくり漱石/12月7日】

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今からちょうど100 年前の今日、すなわち大正5年(1916)12月7日、東京・早稲田南町の自宅(漱石山房)で病床についている49歳の漱石の衰弱の度合いは、いよいよ増してきていた。

心臓の働きが弱って、脈拍も頼りなげだった。11月22日に机につっぷすように倒れてから、悪いかと思うとやや持ち直すこともあり、一進一退を繰り返していたようにも見えたが、やはり全体の流れとしての衰弱傾向は否定しようもなかった。

この前日、東京朝日新聞に掲載された、

《一時は憂慮すべき容態に見受けたるも前記主治医の熱心診療に従事したる結果数日来漸く順調に向えり》

という漱石の病状を伝える記事は、実態とは些(いささ)かズレていたのである。そこに何らかの意図を詮索するよりは、回復を願う祈りにも似た気持ちが作用したと見る方が、事実に近かっただろう。

漱石の枕頭や控えの間には、医師や看護婦、鏡子夫人の他、門弟たちが昼夜を問わず交替で付き添っていた。主治医の真鍋嘉一郎は、相談相手がほしいということで、先輩医師の宮本叔や南大曹らも応援で診療にあたっていた。看護婦も若い人ではなく、昔から漱石の病気を知っている老練な人についてもらっていた。

鏡子は、回復を祈りながらも、漱石の顔に死相とでもいったものが現れているように感じ、いよいよ諦めなければならないかもしれないという気持ちを抱きはじめていた。

そうなってみると、漱石をほとんど絶食状態にさせていることがしのびなかった。

漱石は根が食いしん坊なのを、鏡子は知り抜いている。甲斐なく枯れてしまう命ならば、このまま何も食べさせずに逝かせるのは、あまりに空しく気の毒ではないか。そんな思いがこみ上げてきて、主治医の真鍋嘉一郎にもう少し何か与えてほしいと頼み込んだ。

真鍋はこれを受けて、アイスクリームや果物の汁、薄い葛湯などを少量、漱石の口に含ませてみたりするのだった。

その後、漱石は鏡子に向って、弱々しい声で呟いた。

「真鍋が何かくれるが、いっこう旨くないんだよ」

体の衰えとともに、ものの味もよくわからないようになっているのかもしれなかった。鏡子は咄嗟にはうまい返答ができない。
こみあげる哀しみをのみこみ、一瞬の間を置いて、

「いまに治ればだんだんおいしくなりますよ」

言い聞かせるようにそう言うのが、やっとだった。

■今日の漱石「心の言葉」
どうせ死ぬんだから、旨いものでも食って死ななくっちゃ(『心』より)

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夏目漱石(1867~1916)江戸生まれ。帝国大学文科大学(現・東京大学)英文科卒。英国留学、東京帝大講師を経て、朝日新聞の専属作家に。数々の名作を紡ぐ傍ら、多くの門弟を育てた。代表作『吾輩は猫である』『坊っちやん』『三四郎』『門』『こころ』など。家庭では鏡子夫人との間に7人の子を儲けた。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

Web版「夏目漱石デジタル文学館
夏目漱石に関する資料を数多く所蔵する県立神奈川近代文学館。同館のサイトに特設されている「Web版 夏目漱石デジタル文学館」では、漱石自筆の原稿や手紙、遺愛品、写真など漱石にまつわる貴重な資料画像を解説付きで公開しています。

県立神奈川近代文学館
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神奈川近代文学館外観_2

横浜港を一望できる緑豊かな「港の見える丘公園」の一画、横浜ベイブリッジを見下ろす高台に立つ神奈川近代文学館。夏目漱石に関する資料を多数所蔵する。

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

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