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ない物ねだりを、ちょっとしてみたいというのが、この連載の、ひとつのテーマである。

今回は、江戸時代の蕎麦が、どれほど旨いものであったのかを知り、「こんな蕎麦を食べたい」と、羨望のまなざしを向けてみよう。

江戸時代、お江戸の町には、一町に一軒ほどの蕎麦屋があったという。これは今の時代で言えば、信号ひとつに、蕎麦屋が一軒あるというほどの多さであったらしい。

なぜ、そんなに蕎麦屋が流行ったのか。理由については、諸説あるようだが、いくつ理由があろうとも、基本的に重要なことは、「蕎麦が旨かった」ということだと思う。

江戸の町の蕎麦は、旨かった。だから客は、それを求め、求めに応じて蕎麦屋が増えたのだ。

どんなふうに旨かったのか。今では当時の蕎麦の味を、実際に味見してみることは不可能だが、蕎麦は作り方としてはシンプルな食べ物なので、理論的に考えていくと、だいたい想像がつく。

片山がたどり着いたその答えは「お江戸の蕎麦は、おそろしく旨かった」というものだ。それはもう、蕎麦好きの現代人が食べたら、「生きていて良かった」と涙するほどの、美味しさであったことだろう。

江戸の蕎麦の材料は、すべて「手刈り、天日干しの在来種」であった。これは、現代では、「幻の中の幻の蕎麦」と言ってもいいほど希少な材料で、これだけ流通が発達した時代だというのに、ほとんど手に入らない蕎麦なのだ。

江戸の町の蕎麦は、そういう宝物のような材料が100パーセントを占めていたのである。

また、それだけ特別な蕎麦であれば、栽培するのにも、製粉して蕎麦に仕上げるのにも、特別な技術が必要であったことだろう。それらの技術は、今では、ほとんど忘れ去られ、時の流れの彼方に消えてしまっている。つまり昔の蕎麦の味を、きちんと引き出して、蕎麦として完成させる腕を持った職人が、いなくなってしまったということなのだ。

江戸の昔の蕎麦の味を考察するには、栽培や気象条件から、肥料の様子、流通のシステム、そして冷蔵技術のなかった時代の蕎麦の扱い方のすべてを視野に入れて考えなくてはならない。

「手刈り、天日干しの在来種」から作った蕎麦は、なぜそんなにおいしかったのか。これも理由は、いくつもあるが、スペースの問題もあり、ここで詳しくは触れない。ひとことで言ってしまうなら「科学技術の進歩が、蕎麦の味を根底から変えた」ということだろう。

さらに深くお知りになりたい方は、片山虎之介が開催する「蕎麦のソムリエ講座」などを受講されることをおすすめして、話を先に進めたい。

江戸時代、日本一の蕎麦の名産地として、お江戸の蕎麦好きに評価された信州に、「相木(あいき)」という場所がある。現在の長野県南佐久郡南相木(みなみあいき)村がその一部だが、この地域で栽培された蕎麦は江戸に運ばれ、極上の蕎麦として珍重された。

季節は、今の暦でいえば、11月のはじめころか。信州大学の井上直人教授の研究によれば、北風の吹く中、俵に詰められたソバの実は、馬の背に乗せられ、甲州の川の船着場に運ばれた。そこから船に積まれて川を下り、太平洋に出る。そしてソバを積んだ船は、海路、江戸を目指したのだという。

江戸中の蕎麦好きが、信州の新蕎麦の到着を、一日千秋の思いで待っていた。これから数ヶ月の間、江戸の町は、一年で最も旨い蕎麦の旬の時を迎えるのだ。

冷蔵技術が未発達だった時代は、夏になると、蕎麦の味が極端に落ちた。「夏の蕎麦は犬も食わない」などと言われたものだが、蕎麦好きは、この季節、犬も食わない蕎麦を手繰るしかなかった。そうしながら彼らは、新蕎麦の到来を待ちわびたのである。

落ちるところまで味の落ちた蕎麦から、「手刈り、天日干しの在来種」の新蕎麦に切り替わったときの味の落差は、まさに天と地ほどの開きがあったことだろう。

この落差と、それに伴う感動が、江戸で新蕎麦がもてはやされた最大の理由だったと言える。

科学技術の進歩は蕎麦の世界から、極端な味の落差をなくした。それは蕎麦好きにとって、うれしくもあり、同時に、残念な出来事でもある。

技術の進歩のおかげで、味は、年間を通して安定したのだが、「犬も食わない」ほど味の落ちた蕎麦にも出会わなくなった代わりに、興奮で打ち震えるほど旨い蕎麦に出会うことも、また稀になった。

「手刈り、天日干しの在来種」と、その味をきちんと引き出すことができた江戸の、最高に洗練された蕎麦食文化の組み合わせのインパクトは、現代の蕎麦好きの人々の想像を、はるかに越えたものであったに違いない。

ない物ねだりの贅沢ではあるが、江戸の時代に生きて、新蕎麦を味わう感動を、当時の蕎麦好きの人々と共有してみたいと思う蕎麦好きは、きっと私だけではないだろう。

文・写真/片山虎之介
世界初の蕎麦専門のWebマガジン『蕎麦Web』(http://sobaweb.com/)編集長。蕎麦好きのカメラマンであり、ライター。伝統食文化研究家。著書に『真打ち登場! 霧下蕎麦』『正統の蕎麦屋』『不老長寿の ダッタン蕎麦』(小学館)、『ダッタン蕎麦百科』(柴田書店)、『蕎麦屋の常識・非常識』(朝日新聞出版)などがある。

 

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